退屈ブレイキング

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偽善を叩き斬る痛快感。三島由紀夫の不道徳教育講座から学べること

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こんにちは、daimaです。
ご存知かもしれませんが、
昨日11月25日は、1970年に
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自刃した
三島由紀夫の命日に当たります。

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三島由紀夫といえば、
金閣寺」「仮面の告白」「潮騒」、
豊饒の海
などに代表される、
研ぎ澄まされた美意識と
高い教養に支えられた
謹厳な作風を特徴とし、
その評価は国内にとどまらず、
川端康成安部公房などと並んで
国外でも今尚高い評価を
受け続ける作家の一人です。

私が初めて三島由紀夫の作品に触れたのは
中学二年で読んだ「金閣寺」であり、
その徹底的に研ぎ澄まされた
刃物のような美文に惹き込まれると同時に、
作品から滲み出る圧倒的な滅びの美学に、
頭をガツンと殴られたような
衝撃を受けたことを覚えています。

(特に、放火を終え、自殺を断念した
主人公の青年僧の独白の最後の一文
「生きようとわたしは思った。」が心に残る。
当時の私はその理由が理解できず、
しばらく考え込んでしまいましたが。)

さて、前置きが長くなってしまいましたが、
本稿では、そんな三島由紀夫の作品の中でも
特に私がおすすめしたいと思っている
「不道徳教育講座」という作品を
ご紹介したいと思います。

三島流の知的ユーモアが光る「不道徳教育講座」

「不道徳教育講座」は、1958年から
雑誌「週間明星」(当時の女性向け大衆週刊誌)
にて連載され、1959年に刊行された
三島由紀夫のエッセイ集です。

そのような背景もあり、
文体は語りかけるような砕けたもので、
内容に至っては「教師をバカにすべし」
「人に迷惑をかけて死ぬべし」
「弱いものをいじめるべし」
などといった
まるでPTAに喧嘩でも売るような題目が
ズラリと並んでいます。

ただし、この不道徳教育講座は
決して話題性を狙ったうわべだけの
書籍ではありません。

読んでいて思わず
吹き出してしまうような
愉しいユーモアを交えながらも、
そこには三島の他の文学作品と同じく、
人間や世間に対する鋭い批評眼と
現代人が失いつつある
精神的な豊かさに対する
哀惜の念が強く込められているのです。

また、作中には
「死ぬこと」についての記述も多く、
それはまるで、後の自刃事件を
暗示しているかのようです。

それでは、本書の中でも
特に私が心惹かれた部分について
本文を一部引用しつつ
ご紹介していきたいと思います。

弱い者をいじめるべし


どんなに強者と見える人にも、
人間である以上弱点があって、
そこをつっつけば、
もろくぶっ倒れるものですが、
私がここで「弱い者」というのは、
むしろ弱さをすっかり表に出して、
弱さを売りにしている人間のことです。


しじゅうメソメソしている男がある。
抒情詩を読んだり、自分でも下手な抒情詩を作ったり、
しかもしょっちゅう失恋して、
またその愚痴をほうぼうへふりまき、
何となく伏目がちで、何かといえば
キザなセリフを吐き、
冗談を言ってもどこか陰気で、
「僕はどうも気が弱くて」と
すぐ同情を惹きたがり、
自分をダメな人間と思っているくせに
妙に女々しいプライドをもち、
悲しい映画を見ればすぐ泣き、
昔の悲しい思い出話を何度もくりかえし…
ヤキモチやきのくせに善意の権化みたいに振舞い、
いじらしいほど世話好きで…
こういうタイプの弱い男は、
一人は必ず、諸君の周辺にいるでしょう。
こういう男をいじめるのこそ、
人生最大のたのしみのひとつです。

三島由紀夫は、
自分の弱さをあえてさらけ出して、
それを売り物にするような人間が
心底大嫌いで、
そういうやつは
進んでいじめるべしと言い放ちます。

文中ではそんな人間の代表例として
三島との不仲説もささやかれた同世代の文豪、
太宰治の名前を挙げています。

この思想はおそらく、三島も
愛読していたニーチェの影響であり、
ニーチェツァラトゥストラ
キリスト教が、強いものを良しとする
古来の自然な価値観を歪めて、
道徳的で弱いものを良しとする
不健康な思想を持ち込んだとして
厳しく批判していましたが、
三島由紀夫も同じように、
弱さを肯定するような人間や
それをもてはやす世間の風潮に対し、
自然の法則に反したデカダンな例として
徹底的な批判を展開します。

私などは、どちらかといえば
すぐ心がぐらぐら揺らぐ
太宰治タイプな人間であり、
三島由紀夫ニーチェの理想とする
マッチョで健康的すぎる世界は
どうも生きづらくて仕方ないように思えて、
あんまり賛成できないのですが、
強い者を素直に良しとする
自然な態度に惹かれる気持ちも
全く分からないでもありません。

www.designroomrune.com

もっとも、上記サイト様を含め
様々なところで指摘されているように、
三島が事あるごとに太宰を嫌悪したのは、
同族嫌悪と嫉妬心が
最大の理由であるように思えます。

もし太宰が長生きしていたら、
二人の関係はどうなっていたのか…
大変想像力が刺激されるテーマです。


恋人を交換すべし


男の持っている癒しがたいセンチメンタリズムは、
いつも自分の港を持っていたいということです。
世界中の港をほっつき歩いても
最後に帰って心身を休める港は、故郷の港一つしかない。

本書では、男心や女心についても
色々と書かれていますが、
上記の文章は、男なら多少なりとも
共感せざるを得ない一文です。

失恋した時にいつまでも
相手のことが忘れられず、
長く引きずるのは
女より男の方だと言いますが、
それは、男が女性に対して暗に、
自分が最後に帰る心の故郷として
いつまでも変わらず存在してほしいと
願ってしまうからなのかもしれませんね。


考えてみれば恋愛にはトランプ遊び以上の価値はない。
そこに現代の大きな衛生学的発見があるらしいのです。

そして三島由紀夫
恋愛についてこう切って捨てた上で、
男は自分の孤独こそ
自分の最後に帰るべき故郷の港だと
思い定めよ
と説いています。

恋愛にロマンを求めず、
必要とあらば恋人の交換もできるくらい
割り切ってしまうことが、
青年の精神衛生上望ましい姿勢…
ということでしょうか。
確かにその方が気楽ですが、
一人の男としては、
それもちょっと、味気ない気もするなぁ…。

子持ちを隠すべし


私は同じ同性として、
男性の孤独感を喪失した男を見ると、
忿懣を禁じ得ない。
この孤独感こそ男のディグニティーの根元であって、
これを失くしたら男ではないと言ってもいい。

三島由紀夫は1958年(不道徳教育講座執筆の同年)
に平岡 瑤子と結婚し、のちに子供も設けていますが、
自分の子供の自慢をする男に対して、
どうも不潔でやりきれない
とぼやいています。

また、男は自分の職業に熱中しているときは
本質的な独身者に還っている
とも書いており、
確かに三島由紀夫も作家という職業を通じて
最後までその尖った作風と
尖った生き方を貫き通しました。

あいにく私はまだまだ
結婚とは縁遠い位置にいる人間で、
子持ちの気持ちはわからないのですが、
もし自分が子供を持つ身になったとしたら、
やはり他人に子供の話ばかりする
(三島由紀夫の軽蔑するような)
親バカになってしまうのかもしれませんね…

肉体のはかなさ


一回きりの人生なのですから、はかないものをもう少し大事にして、
磨きたてたっていいではないか。筋肉はよく目に見え、
その隆々たる形はいかにも力強いが、
それが人間の存在の中で一等はかないものを象徴している
というところに、私は人間の美しさを見ます。

三島先生がボディビルに
精を出していたのは有名な話で、
1963年には自身を被写体とした
薔薇刑なるヌード写真集まで
出版しています。

三島先生は肉体を賛美し、
日本の男には、精神的教養だけでなく
肉体的教養も必要である
と説きます。

しかし同時に、肉体に対して、
次のような儚さも感じているようです。


男の肉体ははかないものである。
一文にもならないし、
社会的に無価値で、
誰にもかえりみられず、孤独で、
…せいぜいボディ・ビルのコンテストへ出て、
人に面白がられるぐらいのことしかできない。
現代社会では、筋肉というものは哀れな、
道化たものにすぎない。だからこそ、
私は筋肉に精を出しているのです。

私もささやかながら
ダンベルや懸垂などの筋トレを
継続してやっているのですが、
力仕事でも無いうえに、
年をとればいずれ体は衰えるのに、
わずかな見栄のためだけにあんな
しんどい思いをする意味あるのか、
と時々疑問に思うことはあります。

ですが、その何の役にも立たず、
時間が経てば必ず衰えるという点が
筋肉の美しさ、素晴らしさなのかも
しれないですね。


おわり悪ければすべて悪し


大体日本には、西洋でいうような
おそろしい道徳などという代物はないのです。
この本質的に植物的な人種は、
現在、国をあげて動物のマネをしているけれど、
血なまぐさい動物の国の、
動物の作った掟なんかは、
あんまり植物にはピッタリ来やしないのです。

本書の最終章から抜粋。
三島由紀夫は、良くも悪くも植物的な日本には
動物=西洋の道徳は本質的に
当てはまらないのだと説きます。

ここで言う植物的というのは、
単純に日本が海外の国々より
平和主義で心優しい…という意味ではなく、
三島先生は植物にも殺意があり、
それはもしかしたら動物より陰にこもった、
より深い、より大きい、より強い
殺意かもしれないと語っています。

しかし、日本人を植物的な人種と
言い表すとはまさに言い得て妙ですね。
英語が堪能で、海外在住経験も豊富だった
三島由紀夫は、日本および日本人の
文化的、精神的な特質を、
誰よりも鋭く見抜いていたのでしょう。

私も昔、旅行でアメリカや
中国へ行った経験がありますが、
異なる文化を体感することは
自分の住んでいる国や文化を客観的に
みつめなおし、その良さも悪さも
見直す機会を与えてくれます。


頭の貧しいお役人や教師たちが、
いろいろと新道徳を作り出そうとしますが、
そこには、全然「殺意」が、
あるいは、「殺意に関する認識」が
欠けているから、まるきり
使い物にならないのであります。


自殺するくらいなら、人を殺すか、
人に殺されたほうが、ましというものです。
そのために他人がいるのです。
そのために世界があるのです。
人間のあらゆるつながりには、
親子にも、兄弟にも、夫婦にも、
恋人同士にも、結局のところ
殺意がひそんでいるので、
大切なことは、この殺意を
しっかり認識することです。

先述の「殺意」に繋がる部分。
役人が考える現代の道徳教育には
「殺意」に関する事柄が欠落しており、
それゆえに使い物にならないのだと
三島先生は指摘します。

そして、人間のつながりには
必ず殺意が潜んでおり、
この世に一人でも他人がいてくれる限り、
殺すことも殺されることもできるので、
それがつまりこの世に生きている
仕合わせというものであり、
生きがいである…

と説いて「不道徳教育講座」は幕を閉じます。

どんな人間関係の中にも
殺意が隠れていて、それを認識することが
大切だと言う考えは目から鱗でした。
案外、自分の殺意に気づいていない人間ほど
とんでもない犯罪を起こすのかもしれませんね。

殺すことも殺されることもできるので
それが仕合わせである…
という下りはなかなか難しいですが、
殺意という負の感情であれ、他者の存在は
個人の仕合わせのために
かけがえのないものということでしょうか。


おわりに

以上、ほんの一部でしたが、
三島由紀夫の不道徳教育講座のご紹介を
させていただきました。

実に六十年近く昔の作品ですが、
本書の問いかける内容は、
悪の問題、美の問題、性の問題など、
2017年の26歳の私の心にも
グッと突き刺さる
有意義なものばかりだったと思います。

不道徳教育講座 (角川文庫)

不道徳教育講座 (角川文庫)

本書は三島作品の中でも特に親しみやすく、
一章2〜3ページ、約5分ほどで読めるので、
三島由紀夫の作品を初めて読む方や
お堅い文学作品は苦手という方も
気軽に読み進めることができます。
(私は記事サムネにも使っている
赤い薔薇模様の想定が好きなのですが、
amazonにはこちらのピンクの
装丁のものしか見つかりませんでした。)

寝る前のちょっとした時間や
電車、バスの移動時間にもぴったりな一冊。
この機会に、濃密な三島ワールドを、
ちょっと味見してみてはいかがでしょうか。
それでは。