凄過ぎて理解不能。天才数学者のマジキチエピソードまとめ

教養

はじめに

こんにちは、歴史と数学が
大好物のdaimaです。

本日は、
歴史に名を残す天才数学者達の
マジキチエピソードをご紹介します。

2021/07/04 一部表記ミスを修正

ピュタゴラス - Pythagoras (BC582 〜 BC496)

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誰もが知っているあの定理の発見者

ピタゴラスイッチピュタゴラスと言えば、
直角三角形の3辺の長さの関係を表す
ピュタゴラスの定理で知られる
古代ギリシアの数学者です。

ピュタゴラスは音楽にも造詣が深く、
鍛冶屋の金槌の音の響き合いにヒントを得て
和音の法則(ピタゴラス音律)
発見したという逸話が残っています。

しかしピュタゴラスは
優れた数学者でありながら、
同時に狂信的な宗教家としての
一面も持ち合わせていました。

調和のためなら弟子をも殺す。狂気のピュタゴラス教団

若き日のピュタゴラスは
知識を求めて旅立ち、
エジプト、ペルシア、中央アジア、インドなど
世界各地を20年にわたって放浪し
あらゆる学問を身に着けた末に、
イタリア半島南端のクロトンという町で
「アルケー(万物)は数なり」
教義とする宗教結社、
ピュタゴラス教団を創設しました。

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(『女性のクラスを教えるピュタゴラス』)

教団の入団資格は厳しく、
私財を全て教団に収めた上で
人相占いなどで「どのくらい
真理を求める気持ちがあるか」

を審査され、入団後もまずは
聴聞生として2年から5年間の間
沈黙を守り、先輩の教えを聞いて
理解することだけが
求められました。

また、ピュタゴラスは
数の調和を重んじるあまり、
調和を乱す存在を許すことができず、
整数でも分数でも表せない
無理数の存在を口外した
弟子ヒッパソスを
海に沈めて殺してしまったと
伝えられています。

カリスマ性が災いし、最期は民衆に襲われて死亡

ピュタゴラスの最期については
諸説ありますが、一説によると
ピュタゴラスの僭主化を恐れた
民主派の住民による襲撃に遭い
多くの弟子を殺され、
ピュタゴラス自身も85歳のときに
ギリシアのメタポントで喉を切られて
殺害されたと記録されています。

数学の真理探求が、
狂信的行為や殺人につながったという、
本稿一発目のマジキチエピソード。

ピュタゴラスは友愛数(下記参照)や、
完全数(自身を除く約数の和が自身に等しい数 例=6)
などの特別な数字の組み合わせを複数発見し、
これらを神聖視していたと言われています。

TIPS:友愛数とは?

友愛数とは、自身を除いた約数の和が、互いに他方に等しくなる数のペアを指します。
中世にはこの数字が刻まれたお守りが『愛のお守り』として使用されていました。

最も小さな友愛数(220, 284)はピタゴラスが発見し、現在は11,994,387個以上の友愛数のペアが発見されています。

こうした数字に潜む興味深い関連性を知ると
そこに神秘性を見出したピュタゴラスの気持ちも
少しは分からないでもないような気がしますね…

謎の哲学者ピュタゴラス (講談社選書メチエ)

謎の哲学者ピュタゴラス (講談社選書メチエ)

ヒュパティア (350 〜 415)

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古代の美しき天才女性数学者

続いてご紹介するのは
古代ローマ時代を生きた、
歴史的に見ても数少ない
女性数学者ヒュパティアです。

アレクサンドリアの図書館館長
テオンの娘として生まれたヒュパティアは、
数学、天文学、科学の分野で
類稀なる才能を発揮し、
アテナイへの留学後は
哲学学校の教師となりました。

聡明で美人であったヒュパティアは
学生たちだけでなく、
為政者の中にも多くの熱狂的な
支持者がいたと伝えられています。

あまりにも惨すぎる最期

しかし、そんなヒュパティアを
待ち受けていたのは
あまりにも残酷な運命でした。

当時はキリスト教が勢力を強め、
異教徒への弾圧を激化していた時代。
不幸なことにヒュパティアは、
女の身で男たちに学問を説き、
神秘を否定する冒涜者として
このキリスト教徒たちに
目をつけられてしまったのです。

そして412年、
強硬派のキュリロス
アレクサンドリアの総主教となり、
緊張が高まる中の415年、
とうとうある事件が起こります。

3月のある日、学園に
馬車で向かうヒュパティアを、
キュリロス配下の
修道士たちが引き摺り下ろし、
教会へ連れ込んで裸にすると、
鋭いカキの殻でヒュパティアの肉を
生きたまま骨から削ぎ落として、
遺体を火で焼いてしまったのです。

(ここでカキの殻が用いられたのは、
当時のギリシャ圏でカキの殻が
屋根瓦に利用されていたため)

ヒュパティアの死
(Louis Figuierによる絵画『アレクサンドリアの哲学者ヒュパティアの死』)

このあまりに酷い死が知れ渡ると
アレクサンドリアの学者達は
次は我が身と恐れをなして
雪崩を打ったように国外へ亡命。

こうして、かつては学都として
栄華を誇ったアレクサンドリアの街は、
一気に衰退の道を辿ったのでした。

宗教的な迷妄が偉大な理性を殺した
あまりにマジキチすぎるこの結末。

こういう話を知るたびに
誰もが平等に教育を受けられる現代社会の
有難みを改めて思い知らされますね。

関孝和 (1642 〜 1708)

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近世日本を代表する和算の立役者

関孝和(せき たかかず)
算聖と呼ばれた
江戸時代の数学者です。

関孝和が生きたのは17世紀後半ですから、
ちょうどニュートンと同時代の
人物になるわけですね。

幼少時から数学の才能を発揮した関は、
当時江戸で流行っていた塵劫記という
数学入門書を愛読し、
成人後には、奈良の寺にある
数百年誰にも解けなかった中国の算術書、
『揚輝算法』を、乱丁や答えの間違いまで
完璧に修正した上
で全て
解いてしまった
という
逸話も残されています。

鎖国体制の日本で西洋の最先端とタメを張れるリアルチート

関孝和の何がすごいのかと言えば
中国の天元術を元に生み出された
日本独自の数学体系である
和算の発展の立役者となったこと
そして鎖国体制の日本で
同時代の西洋に並ぶ非常に
ハイレベルな数学をやったこと
です。

特に有名なのが円周率の計算で、
暦の作成に利用する目的で
正131072(2の17乗)角形を使って、
小数点以下16桁までの正確な
円周率を算出しています。

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(ベルヌーイ数や二項係数について書かれた『括要算法』)

また他にも行列式の発見
ベルヌーイ数の発見
さらには微積分に近い計算まで
独自で編み出していたそうです。

学問としての数学の歴史が深く、
国家間の数学者同士の連携も可能だった
ヨーロッパならともかく、
鎖国時の日本でここまで到達する
人物が居たということは、
冷静に考えると相当、
驚異的なことではないでしょうか。

天地明察(上) (角川文庫)

天地明察(上) (角川文庫)

ちなみに余談ですがこの関孝和、
江戸時代の囲碁棋士
渋川春海(安井算哲)を主人公とした
冲方丁の歴史小説、『天地明察』にも
重要なポジションで登場していたりします。

この作品には関をはじめとする
江戸時代の数学者の活動や情熱が
丹念に描かれており、
もし関孝和にご興味がおありであれば
ぜひともお読みいただきたい一冊です。

エヴァリスト・ガロア - evariste galois (1811 〜 1832)

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わずか21歳で夭折した数学の神童

エヴァリスト・ガロアは、
フランス革命から22年後の
1811年、パリの南にある
ブール・ラ・レーヌという
小さな村に生まれました。

十六歳ではじめて
数学の授業を受けたガロアは、
教師達が困惑するほど
これに熱中するようになり、
十七歳の時には
『ジェルゴンヌ数学年報』に
自身の処女論文を
発表するまでになります。

また、相対性理論や量子力学に欠かせない
「群論」の先見的な研究を行って
アーベル–ルフィニの定理を完成させ、
五次以上の方程式には解の公式が
存在しない
ことを明らかにしたのも
ガロアの大きな業績です。

しかし、これだけの偉業を成したガロアは、
21歳という異様な若さで世を去っています。

ガロアの運命を変えたのは、
生来の向こう見ずな性格と
当時の不安定なフランスの
政治情勢でした。

死因は決闘。時代の荒波に飲まれた天才の悲劇

ガロアの性格を物語るエピソードの一つに、
当時の名門校、エコール・ポリテクニクへの
入学試験での一幕があります。

教授達を凌駕する才能を持ち、
尚且つ権力嫌いだったガロアは、
試験の際も試験官が理解できないような
洗練された解法で問題を解き、
そのくせ過程は書かないなどという
反抗的な態度を見せ、
学校側の心象を大きく損なっていました。

さらにガロアは一度目の試験の際、
口頭試問でぶっきらぼうな答えをして
不合格となり、二度目の試験では、
論理的に飛躍のある回答をして
試験官を混乱させたばかりか、
才能が認められないことに苛立ち、
黒板消しを試験官に投げつけたために、
二度とエコール・ポリテクニクの門を
潜ることが叶わなくなってしまったのです。

また、ガロアは
体制派に弾圧されて死んだ父や、
共和運動に参加して放校処分になった
学友達の影響もあり、共和派の運動に
強く共鳴していました。

エコール・ポリテクニクを諦め、
代わりに入学したエコール・ノルマルでは
王政主義者の校長ギニョーを
名指しで批判して放校処分となり、
その後も、公然と体制側を批判し、
体制への抗議運動に参加するなどして
二度も逮捕されています。

そして運命の1832年。
ガロアはステファニーという
医者の娘をめぐる色恋沙汰で
デルバンヴィルという紳士に
決闘を申し込まれることとなります。

(この決闘自体が
ガロアを抹殺するために
仕組まれたものだった
という説もあります。)

愛国者諸君、ぼくの友人諸君、
ぼくが祖国のため以外のことで
死んでゆくのを責めないでくれ。

ぼくは恥知らずのコケットと
このコケットにだまされた
二人の男の罠にかかって死ぬ。

みじめな誹謗のなかに、
わが人生は消えてゆく。
ああ、何てつまらんことのために、
何て下劣なことのために死ぬんだろう。

天に誓って言うが、
僕はあらゆる手段で
この挑発を避けようとしたけれど、
いかんともしがたくこれに屈したのだ

(ガロアの残した手紙の一節
サイモン・シン著 フェルマーの最終定理より引用)

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(決闘前夜にガロアが綴ったノートの一部)

対決の前夜、残された僅かな時間で
友人達に最期の別れの言葉と
ありったけの数学的アイディアを
手紙にしたためたガロアは、
1832年5月30日、
デルバンヴィルとの決闘に臨み、
腹部を撃たれてその場に倒れ伏します。

ガロアは数時間その場に放置され、
その後駆けつけた弟のアルフレッドによって
コシャン病院に担ぎ込まれますが、
腹膜炎によって翌日息を引き取りました。

Ne pleure pas, Alfred ! J’ai besoin de tout mon courage pour mourir à vingt ans!
(訳:泣かないでくれアルフレッド。
20歳で死ぬということは、
ありったけの勇気がいるんだからな。)

引用元: http://www.neverendingbooks.org/galois-last-letter

弟アルフレッドに残した
ガロアの最期の言葉です。

ガロアほどの才能が、
色恋沙汰の決闘で散るという結末は、
人の運命のままならなさを
思い知らされるかのようですね。

シュリニヴァーサ・ラマヌジャン - Srinivasa Ramanujan (1887 〜 1920)

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数式は、神様が教えてくれた

続いての数学者は、
直感的方法で数々の
エレガントな数式を生み出し、
「インドの魔術師」と呼ばれた
シュリニヴァーサ・ラマヌジャンです。

貧しいバラモン階級の生まれである
ラマヌジャンは、英国の数学者ハーディ
その才能を見出し渡英するまで、
証明という概念すら知らず、
得られた定理に対しては、
「寝ている間にナーマギリ女神が教えてくれた」
などの理由付けをしていました。

ラマヌジャンの公式
(ラマヌジャンの公式 wikipediaより引用)

しかしその数学的センスは
ケンブリッジ教授のハーディも
驚くほど非凡なものであり、
上記のモジュラー関数の
考えに基づいた円周率の公式や
ゼータの積構造の発見など、
多分野に渡って数々の
目覚ましい業績を打ち立てたのです。

また更に言えば、
1995年のアンドリュー・ワイルズによる
フェルマーの最終定理の証明も
ラマヌジャンによる
新しいゼータ関数の発見なくしては
あり得なかったというから驚きです。

ラマヌジャンのタクシー数

ラマヌジャンの天才性を
表すエピソードとして
特に有名なのが
ラマヌジャンのタクシー数
エピソードです。

1918年2月ごろ、
ラマヌジャンは療養所に入っており、
見舞いに来たハーディは次のようなことを言った。

「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった。
さして特徴のない数字だったよ」
これを聞いたラマヌジャンは、
すぐさま次のように言った。

「そんなことはありません。
とても興味深い数字です。
それは2通りの2つの立方数の
和で表せる最小の数です」

実は、1729は次のように表すことができる。
1729 = 12^3 + 1^3 = 10^3 + 9^3

すなわち、1729が
「A = B3 + C3 = D3 + E3」という形で
表すことのできる数 A のうち
最小のものであることを、
ラマヌジャンは
即座に指摘したのである。

いやぁ〜、天才って怖いですねぇ…

イギリスの環境が合わず早逝

そんな良い意味でマジキチな
天才ラマヌジャンでしたが、
惜しいことに
わずか32歳の若さで亡くなっています。

死因は、結核、ビタミン欠乏症、
肝炎など諸説あり定かではありませんが、
ラマヌジャンがヒンドゥー教徒で
ベジタリアンであったこと、そして
第一次大戦時で食物が十分に
得られなかったことが
大きな要因となったようです。

西洋的な合理性とは別の
直感的な方法で数学の新境地を
切り開いたラマヌジャン。

かつてその才能を見出したハーディは、
「ラマヌジャンを見出したことが
私の最大の業績だった」

晩年語ったそうです。

ラマヌジャンζの衝撃 (双書―大数学者の数学)

ラマヌジャンζの衝撃 (双書―大数学者の数学)

ラマヌジャン探検――天才数学者の奇蹟をめぐる (岩波科学ライブラリー)

ラマヌジャン探検――天才数学者の奇蹟をめぐる (岩波科学ライブラリー)

クリストス・パパキリアコプロス - Christos Dimitrios Papakyriakopoulos (1914 〜 1976)

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ポアンカレ予想に人生を狂わされた数学者

クリストス・パパキリアコプロス
幾何学的位相幾何学を専門とする
ギリシア出身の数学者です。

アメリカに渡り、
パパの愛称で親しまれた
パパキリアコプロスですが、
彼の人生は世紀の難問
ポアンカレ予想によって
大きく狂わされていくのでした。
(ポアンカレ予想の概要については
グレゴリー・ペレルマンの項を参照)

真理に全てを捧げた末に…

ポアンカレ予想に
取り組み始めたパパは、
徹底した秘密主義を貫き、
自分の生活の時間のほぼ全てを
ポアンカレ予想の証明に
費やすようになります。

その全身全霊ぶりは
プリンストン大学から
教授職の申し出があった際にも
研究に専念するためにと
これを辞退してしまうほど。

彼は渡米後25年間、
ホテルの同じ部屋で暮らし、
毎日機械のように規則正しい生活を送り、
父の葬儀の時の一回を除いては一度も
祖国へ帰ることはなかったそうです。

パパのポアンカレ予想への
執着は並大抵のことではなく、
ライバルのヴォルフガング・ハーケンが
自分より先にポアンカレ予想を
証明したと発表した時など、
パパは非常に取り乱し、
ハーケンの証明の欠陥が明らかになった後も、
精神に不調をきたすようになってしまいます。

その後も最期まで
ポアンカレ予想の証明に
人生を捧げたパパでしたが、
ポアンカレ予想を解明することは叶わず
パパは1976年、62歳の時に
癌で死去してしまいました。

生涯独身であったパパは
「ポアンカレ予想が解けたら結婚しよう」
という、死亡フラグギリシア時代の
恋人との約束をついに果たせず、
死後葬式も行われず、
親しかった友人ですら
最後まで彼の正確な墓所を
知ることはなかったそうです。

数学に潜む魔物の恐ろしさを
思い知らされるようなエピソードですね。

ペトロス伯父と「ゴールドバッハの予想」 (ハヤカワ・ノヴェルズ)

ペトロス伯父と「ゴールドバッハの予想」 (ハヤカワ・ノヴェルズ)

パパキリアコプロスをモデルとして、
同じくギリシア出身の
アポストロス ドキアディスによって
「ペトロス伯父と「ゴールドバッハの予想」
という小説が出版されています。

ラマヌジャンやチューリング、
ゲーデルなどパパと同時代の数学者も
豊富に登場し、なかなか
読ませる一冊に仕上がっていますよ。

アレクサンドル・グロタンディーク - Alexander Grothendieck (1928 〜 2014)

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ブルバキのメンバーでもあった天才数学者

続いてご紹介するのは、
スキンヘッドと鋭い眼差が少し怖い、
ドイツ出身のユダヤ系数学者
アレクサンドル・グロタンディークです。

その業績は、代数幾何学の近代化、
l-進コホモロジー、クリスタリンヌ・
コホモロジーの発見による
ヴェイユ予想への貢献
など、
20世紀の数学者の中でも
特に群を抜いたもので、
1966年には
フィールズ賞も受賞しています。

またグロタンディークは
フランスの若手数学者集団
ブルバキの中心的メンバーであり、
さらに、グロタンディークの功績を称えて、
後に多くのフィールズ賞受賞者を輩出する
IHÉS(フランス高等化学研究所)
設立されました。

一見して、数学者として
順調にキャリアを積み上げて
いたかに見えたグロタンディーク。

しかし1970年
グロタンディークが42歳の時に、
それまでの人間関係やキャリアを
突如断ち切って、
世捨て人のような生活に
突入してしまいます。

平和活動にのめり込んで世捨て人に…

グロタンディークは、
NSDAP(ナチ党)が勢力を増しつつある
1928年のベルリンで、
過激な左派運動に参加するアナキストである
シャピロとハンナの夫婦の元に生を受けました。

このような出自と、
自身の戦争体験からか
グロタンディークは年を経るにつれ、
過剰なまでに反戦運動と環境問題に
のめり込んでいきました。

(グロタンディークの研究所には、
父の肖像画が飾られていたそうです)

そして1970年、
自身が所属していたIHÉSに
軍からの資金援助があることを知った
グロタンディークはこれに激怒。

IHÉSの創設者
Léon Motchaneとの激しい討論の末に、
IHÉSを辞退してしまいます。

その後は自身を
「好戦的行動主義者」と宣言し、
小さな機関で研究を続けたり、
Survivre et Vivreという
グループの設立を行う等しましたが、
その急進的すぎる思想は
世間の理解を得ることができず、
次第にグロタンディークは
周囲から孤立していきます。

1980年代に入ると
グロタンディークは精神的に不安定になり、
ピレネー山脈の小さな村へ恋人と移住。

そして1991年、
当時の恋人の家の庭で
数千ページの原稿を焼き捨て、
以後消息を完全に絶ってしまいます。

その後しばらく
表舞台に姿を見せることはなく、
2010年には、教え子に依頼して
許諾のない自身の著作を
ネット上から大量に削除。

最期は2014年11月13日に
フランス南西部サン・ギランスの
病院で息を引き取りました。

数学者として、
誰もが羨むような栄誉を掴みながら、
自らの思想のために、それらを全て
投げ捨ててしまったグロタンディーク。

その生き方を否定することはできませんが、
もし彼が純粋に数学の研究を続けていれば
どれだけの成果を残していたのかと考えると
なんとも歯がゆい思いがしますね。

57は素数…?

グロタンディークについて
有名なエピソードの一つに
グロタンディーク素数があります。

これは、
素数の一般論に関する講義の最中に、
具体的な素数による解説を求められた
グロタンディークが、
合成数である57を挙げてしまった
出来事に由来するジョークです。

グロタンディークが
具体的な対象よりも、
抽象的な一般論に関心があったことを
示す印象的なエピソードですね。
(単なるミスかもしれませんが)

グロタンディーク 数学を超えて

グロタンディーク 数学を超えて

グリゴリー・ペレルマン - Grigory Perelman (1966〜)

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世紀の難問ポアンカレ予想を解決

グリゴリー・ペレルマンは
ロシア出身の数学者。子供時代から
ずば抜けた才能を発揮し、
16歳の時にはソ連国内の
数学コンクールを勝ち抜いて、
最年少で国際数学オリンピックの
代表選手に選ばれています。

また、恐ろしいことに、
ペレルマンは数学だけでなく
物理学の方面でも非常に優秀でした。

そしてこの物理の才能は、
後にポアンカレ予想解決の
大きな武器となります。

時は移って1990年代。
ソ連の崩壊をきっかけとして、
ペレルマンはアメリカへ移住。
そこで3年を過ごした後に
いよいよ世紀の難問
ポアンカレ予想への挑戦を開始します。

ポアンカレ予想の内容については
あまりにハイレベルすぎて
正確な説明は叶いませんが、
ご参考までにwikipediaから
簡単な概要を引用しておきます

宇宙の中の任意の一点から
長いロープを結んだロケットが
宇宙を一周して戻って来たとする。

ロケットがどんな軌道を描いた場合でも
ロープの両端を引っ張って
ロープを全て回収できるようであれば、
宇宙の形は概ね球体である
(ドーナツ型のような穴のある形、ではない)
と言えるのではないか、というのが
(3次元)ポアンカレ予想の主張である

(wikipediaより引用)

…雰囲気はつかめましたでしょうか?
正直この辺は、
前述したNHKのドキュメンタリーを
ご覧になるのが一番わかりやすいかと思います。

1995年にペレルマンがアメリカから帰国し、
さらに7年後の2002年。
インターネット上に、ポアンカレ予想と、
ポアンカレ予想の証明に必要な
幾何化予想の証明が掲載されている
という噂が流れます。

そう、それこそが
ペレルマンが10年近い歳月をかけて
成し遂げた、ポアンカレ予想の
完全なる証明
だったのです。

ペレルマンが登場する以前、
ポアンカレ予想に取り組む数学者は、
主にトポロジー(位相幾何学)という
数学の分野を精力的に研究していました。

しかしペレルマンの証明は、
トポロジーではなく、
微分幾何学物理学のアプローチによる
前例のない独創的な手法で
ポアンカレ予想を解決するものでした。

ペレルマン
(プリンストン大学でポアンカレ予想の解説をするペレルマン)

この証明に数学界は騒然となり、
足掛け4年に渡る論文の査読の末に、
ペレルマンは正式に
ポアンカレ予想の解決者として
ミレニアム懸賞を受賞することなります。

しかし、ペレルマンはその後
なぜか表舞台から姿を消し、
100万ドルの賞金と
2006年に授与された
フィールズ賞も辞退してしまいます。

しかも後の取材によると
ペレルマンの生活は豊かとは言えず、
わずかな貯金と母親の年金に頼って
細々とアパート暮らしを
続けているというのです。

ペレルマンの身に
一体何が起きたというのでしょうか?

孤独な数学者の真実

完全なる証明 100万ドルを拒否した天才数学者 (文春文庫)

完全なる証明 100万ドルを拒否した天才数学者 (文春文庫)

ペレルマンがこのような
隠遁生活を選んだ最大の理由として、
ロシア人作家マーシャ・ガッセンの著書
「完全なる証明―100万ドルを
拒否した天才数学者」
では、
朱熹平曹懐東という
二人の中国人数学者による
ペレルマンの栄誉の
横取り騒動
を挙げています。

ペレルマンの論文発表後、
その査読は長い時間をかけて
行われていたのですが、
そこに現れたのが朱熹平と曹懐東という
二人の中国人数学者でした。

彼らは
「ペレルマンの証明には欠陥があり、
自分たちこそが完全なる証明を
行なったのだ」
と宣言し、
さらにそこへ数学界の大物、
丘成桐が後押しを加えて、
自分たちこそがポアンカレ予想の
解決者であると主張を始めたのです。

結局、朱熹平と曹懐東の論文には
コピペなどお粗末な欠陥が次々に見つかり、
ポアンカレ予想の解決者が
ペレルマンの功績であることは
揺らぎませんでした。

ですが、もしこれが事実だとすると、
人生をかけて得た名誉を
他人に奪われそうになった
ペレルマンの心痛は
想像に余るものがあります。

フィールズ賞や賞金の辞退も
純粋に数学を愛するペレルマンなりの
醜悪な争いに対する無言のメッセージ
なのかもしれませんね…

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