神は死んだ。ニーチェ思想の集大成「ツァラトゥストラかく語りき」の名言集

名言

はじめに

ニーチェイラスト

(Friedrich Wilhelm Nietzsche(1844 - 1900)
(drawing by daima)

こんにちは、daimaです。

本日は、「超人」「ルサンチマン
永遠回帰」「神は死んだ」
など、
反道徳的かつ反キリスト教的な思想で
その後の哲学、文学に大きな影響を与えた
フリードリヒ・ニーチェの著書、
ツァラトゥストラかく語りき」
を取り上げてみたいと思います

ツァラトゥストラかく語りき』の概要

ツァラトゥストラかく語りき」
後期ニーチェ思想の集大成とされ、
その内容は全4章に分かれています。

第一部では、十年ものあいだ
山奥で一人思索にふけっていた
ツァラトゥストラが、あるとき
下界の人々に自分の知恵を
分け与えようと思い立ち、
山を降りて自らの教えを説く姿が描かれます。

第二部では、自分の思想が
まだ人々の間に
受け入れられないことを悟って
山へ帰ったツァラトゥストラが、
下界で自分の教えが
誤った形で広まっていることを知り、
再び山を降りて、弟子たちや
敵対する者たちに向き合います。

そして本書の締めくくりとなる
第三部と第四部では、
ニーチェ思想の核心とも言える
永遠回帰の思想が
ツァラトゥストラの口から語られます。

永遠回帰とは、ざっくり言えば
自分の人生が寸分たがわず
永遠に繰り返される
という思想です。

そして、この思想を受け入れた時、
人はルサンチマン(=弱者が強者を妬む気持ち)
を乗り越えて超人になれるのだと
ニーチェは説いたのです。

ツァラトゥストラかく語りきの名言集

君よ、大いなる星よ。
いったい君の幸福もなにものであろうか、
もし君に光り照らす相手がいなかったならば。

(ツァラトゥストラの序説)

十年の山籠もりを終え、
人の世界へ下る決心をしたツァラトゥストラの言葉。

ここでは、ツァラトゥストラがの心情が
星に例えて語られていますが、
ニーチェはこのような比喩を好んで良く使います。

こんなことがあってもいいものだろうか。
この老いた聖者は、森のなかにいて、
まだ何も聞いてはいない。
神は死んだ、ということを

(ツァラトゥストラの序説)

ツァラトゥストラ
山を下るときに出会った聖者との
会話の後に語った台詞。有名な台詞
「神は死んだ」はここが初出です。

ここで登場した聖者は、旧態依然とした
ニーチェ以前の哲学者の象徴であり、
この言葉には、自分たちの世界に引きこもって
現代社会の変化に全く気づいていない
聖者に対する、ツァラトゥストラ
驚きが含まれています。

わたしは諸君に超人を教える。
人間は、克服されねばならない何かだ。
君たちは人間を克服するために、
何をしたか。

(ツァラトゥストラの序説)

森のはずれの街にたどり着いたニーチェが、
群衆へ向かって最初に語りかけた言葉

「超人」とは、既成の価値観を否定し、
絶えず新しい価値観を創造する存在のこと。
ニーチェはこの「ツァラトゥストラ」を通して
超人とは何か、なぜ人間は超人を
目指さなければ何かを明らかにします。

超人は大地の意義である。
君たちの意思はこういうべきだ。
超人よ大地の意義であれ、と。
我が兄弟よ、わたしは心から願う。
大地に忠実であれ、
そして諸君に地上のものならぬ希望を語るものどもを、
信じてはならないと。
自らそれを弁えていようといまいと、
彼らは毒を盛ろうとしているのだ。

(ツァラトゥストラの序説)

「地上のものならぬ希望」とは
キリスト教の教義にある
死後の世界のことでしょう。

ニーチェは「ツァラトゥストラ」において、
キリスト教の教えや道徳を徹底的に批判します。

人間は綱だ、
動物と超人との間に掛け渡された―――
深淵の上に掛かる、
一本の綱だ

(ツァラトゥストラの序説)

ツァラトゥストラが演説を行った広場では、
丁度綱渡りの見世物が行われていました。

それにあわせてか、ツァラトゥストラ
人間と動物、そして超人の関係を
綱渡りにたとえて表現しています。

わたしは愛する。
人間の上にこめるくろ雲から、
一粒ずつ落ちてくる、
思い雨垂りのような者たちを。
彼らは稲妻が来ることを告知する。
そして告知するものとして破滅するのだ。

(ツァラトゥストラの序説)

ツァラトゥストラが、
自分が愛する人間について列挙した中の
最後の一節です。

超人の到来を予知するものとは、
まさにツァラトゥストラ自身を
指しているのでしょう。

見よ。わたしは諸君にこの最後の人間を示そう。

「愛って何? 創造って? 憧れって? 星って何?」

最後の人間はそう尋ねて、まばたきする。

その時大地は小さくなる。
そしてその上で、
一切を小さくする最後の人間が跳ね回っている。
その種族は地蚤のように根絶やし難い。
最後の人間はもっとも長く生き延びる。

彼らは生きるに苦しい土地を見捨てる。
温もりが要るから。
やはり隣人を愛し、
その身をこすりつける。
温もりがいるから。

病気になること、不信を抱くことは、
彼らにとっては罪である。
用心してゆっくりあるく。
石に躓いても、人に躓いても、
そいつは世間知らずの阿呆だ。

ときどきわずかな毒を飲む。
心地よい夢が見られるから。
そして最後には多くの毒を。
そして心地よく死んでいく。

働きもする。
労働はなぐさめになるから。
しかしなぐさめが過ぎて、
身体をこわさないように気づかう。

彼らは悧巧で、
世間で起きることならなんでも知っている。
だから彼らの嘲笑の種は尽きない。
口げんかくらいはする。
だがまもなく仲直りする―――
そうしないと胃に悪いから

小さな昼の快楽、
小さな夜の快楽をもっている。
だが健康が第一だ。
「僕らは幸福を発明した」―――
最後の人間はそう言って、
まばたきする―――

(ツァラトゥストラの序説)

自説に聞く耳を持たない大衆に対し、
ツァラトゥストラは方向性を変えて、
今度は超人の対極に位置する
最後の人間(末人)について話します。

末人とは、ここで言われている通り
健康に気を使って冒険をせず、
安寧な日々を貪って
生を浪費するだけの人々
であり、
ツァラトゥストラはそんな末人を
強い言葉で蔑んでいます。

しかし、末人の生き方は、典型的な
現代人のライフスタイルそのものであり
超人と末人、どちらかになれと問われれば、
圧倒的多数が末人を選ぶでしょう。

(超人は孤独であり、最後には破滅することが分かっていますからね…)

作中でも、演説の後に群衆の一人が
「俺たちを最後の人間にしてくれ。
超人はお前にくれてやる!」
といった
野次を浴びせています。

ニーチェの提唱する超人は、
私を含めた凡人にとっては
あまりに厳しい生き方ですが、
それだけに尊い存在なのかもしれません。

もっとも重いもの。それは、
おのれの傲慢に痛みを与えるために、
みずからを卑しめることではないか。
己の知恵をあざけるために、
みずからの愚劣を明るみに出すことでは。

精神はかつて「汝なすべし」を。
みずからのもっとも聖なるものとして愛した。
今や精神はこの
もっとも聖なるものの中にすら、
妄想と恣意とを見いださざるを得ない。
こうして彼はみずから愛していたものからの自由を奪いとる。
この強奪のために獅子が必要なのだ

幼子は無垢だ。忘れる。
新たな始まりだ。遊ぶ。
みずから回る輪だ。最初の運動だ。
聖なる「然りを言うこと」だ。

(三つの変化について)

ツァラトゥスゥトラは、人間の精神の3段階の変化を、
駱駝、獅子、幼子の3つに例えて説明しました。

駱駝は敬虔な信者のようにただひたすら
古い価値観(=世間の常識)が押し付ける
重荷に耐えるだけの精神。
獅子は古い価値観にNOをつきつけ
破壊する自由な精神。
そして幼子は、遊びながら創造する
無垢な精神を表しています。

人間だったのだ、神は。
しかも人間と自我のみじめな一かけらに過ぎなかった。
私自身の灰と灼熱から、この幽霊は現れた。
金輪際、彼岸から来たのではなかった。

(世界の向こうを説くものたちについて)

ツァラトゥストラは、
神など存在せず、
全ては人間の想像の産物に
過ぎなかったのだと
ばっさり切り捨ててしまいます。

ニーチェはその思想が原因で
生前は各方面から
激しいバッシングをうけたそうですが、
ここまで言い切ってしまえば
それも仕方ない反応でしょうね。

諸君、肉体を軽蔑する者よ。
諸君の愚行と軽蔑においてさえ、
君たちはみずからの「自己」に仕えている。
言おう、諸君の「自己」そのものが
死のうと欲しているのだ、
生に背を向けているのだ。

(肉体を軽蔑する者たちについて)

精神や魂といった形而上的なものを重視し、
肉体を軽視してきたキリスト教へのアンチテーゼ。

ニーチェは肉体こそが大いなる理性と考え、
魂は肉体にある何かを言い表す言葉であり、
精神に至っては肉体の道具であると語っています。

余談ですが、ニーチェ
傾倒していたことで知られる
作家の三島由紀夫も肉体を賛美し、
自らボディビルで強靭な肉体を
作り上げていたことは有名ですね。

すべての書かれたもののなかで、
わたしは血で書かれたものだけを愛する。
血で書け。ならばわかるだろう、
血が精神であることを

他人の血を理解することはたやすくできることではない。
わたしは読んでばかりいる怠惰なものを憎む。

(読むことと書くことについて)

本を読むことで知識は得られますが、
肉体を通じて体得することには勝りません。
(読書好きとしては耳に痛い...)

そういえば、ニーチェに影響を与えた
哲学者ショウペンハウエルも、
自著「読書について」で
身にならない読書の害について
自説を説いていましたね。

わたしの愛と希望にかけて願う。
君の魂のなかの英雄を投げ捨てるな。
君の最高の希望を聖なるものとして持ち続けよ―――

(山上の木について)

ツァラトゥストラは旅の途中で
とある若者と出会います。
若者は高みを目指すために
ツァラトゥストラの教え通りに
それまで信じていた価値を
否定することを実践しますが、
そのために周囲から孤立し、
精神的に疲れ切っていました。

そんな若者に対し、
ツァラトゥストラは木の喩えや
かつて英雄になろうとして挫折し、
堕落してしまった者たちの話をしたのち、
最後に上記の名言で締めくくって
若者を鼓舞します。

もしかしたらこの悩める若者の姿は、
誰にも自身の思想を理解されなかった
当時のニーチェ自身の心境を
反映したものだったのかもしれませんね。

戦いと勇気は、
隣人愛よりも多くの偉大なことを成し遂げた。
今まで多くの困窮した人々を救ってきたのは、
君たちの同情よりもその勇敢さだ。

(戦争と兵士ついて)

ツァラトゥストラは、
キリスト教最大の美徳である隣人愛を否定し、
常に敵を探し、勝利を求めよと説きます。

一見過激な思想ですが、かつて戦争が
文化や科学技術を高めた事実を考えると、
この言葉も頭ごなしに否定することはできませんね。

国家とは冷たい怪物のなかでももっとも冷たい、
それは冷ややかに嘘をつく。
その口から這いずり出てくる嘘はこうだ。
わたし、すなわち国家は、民族である。

(新しい偶像について)

帝国主義の時代を生きた
ニーチェの国家観が現れた章です。

ニーチェの思想はニーチェの死後に、
エリーザベト
熱心な売り込み活動の甲斐あって
ナチスの思想基盤として
利用されてしまった歴史があります。

その点からも批判されることが
多いニーチェの思想ですが、
この章に見られるような
国家や権力に対する分析を見るに
私には、もしニーチェが生きて
ナチスの有様を見たならば、やはり
痛烈に批判して見せたのではないか

と思えてなりません。

国家が終わるところで、
はじめて人間が始まる。
余計などではない人間が。
そこで歌が始まる。
なくてはならない人間の、
一回きり、かけがえのない歌が。

(新しい偶像について)

ニーチェは国家が個人を支配する
全体主義には反対だったのでしょう。

個人の生に対し、
生涯をかけて深い思索を巡らせた
ニーチェならではの一節です。

市場はもったいぶった道化だらけだ。
―――そして大衆はこの道化を大物だと褒めそやす。
大衆にとって、彼らは時代の支配者だからだ。

(市場の蝿について)

実存主義の先駆けとも言われる
哲学者キルケゴールと同じく、
ニーチェもマスメディアの軽薄さを
心底嫌っていたようです。

大衆の人気を集める「もったいぶった道化」
いつの時代も消えてなくならないのでしょうね。

友になろうとするのならば。
友のために戦わねばならない。
そして戦うためには、
敵になることができなくてはならない。

(友について)

友のために敵になるとは、
真の友情とは馴れ合いや同情ではなく
時には友のために
敵にねばならないということでしょうか。

今まで千の目標があった。
千の民族がいたのだから。
だがこの線の頸をひとつにたばねる軛がない、
ひとつの目標がない。
人類はまだ目標を持っていない

だが、どうか、わが兄弟たちよ。
人類にまだ目標がないなら、
―――人類そのものがまだ居ないのではないか―――

(千の目標とひとつの目標について)

ツァラトゥストラは、これまでに
千の民族が互いに異なる目標持ち
争い続けて来たためにまだ人類共通の
目標を持てていないのだと語ります。

しかし、人類が一つの共通した
目標をもつことなど可能なのでしょうか。
少なくとも、今の世界情勢を考えれば
それは遠い未来の出来事となりそうです。

君は、みずから自身の炎で、
自分自身を焼こうとせざるを得なくなる。
ひとたび灰になりおおせることなくして、
どうして新たに蘇ることができるというのか。

(創造者の道について)

ツァラトゥストラは、
自己の超克のためには、古い価値観を
燃やし尽くさねばならないと語ります。

平成26年度 教養学部学位記伝達式 式辞 - 総合情報 - 総合情報

2015年、東大総長の式辞において、
この箇所が上手く引用され
話題を集めたこと
も記憶に新しいですね。

結婚とわたしが呼ぶのは、
想像する二人が、
自分たち二人を超える一人を創造しようとする意思だ。
そういう意思を意欲する者として、
二人がお互いを畏敬し合うということ。
これを私は結婚と呼ぶ。

(子どもと結婚について)

結婚について語るツァラトゥストラ
子供をつくることが、自分たちを超える
一人を創造することという考え方は
新鮮で非常に興味深いです。

ちなみにニーチェは生涯独身。
頭が良く、大学教授の職もありましたが
女性にはあまりもてなかったようです。

多くのものはあまりに遅く死ぬ。
ある者たちはあまりに早く死ぬ。
「死ぬべき時に死ね」、という教えはまだ耳慣れまい。

余計な人間たちも、
死ぬとなればもったいぶった意味をほしがる。
からの胡桃も割ってほしがる

(自由な死について)

選民的で横暴な思想ではありますが、
ニーチェの死生観がうかがえる
重要なパートでもあります。

認識する人は、
自分の敵を愛するだけでなく、
自分の友を憎むことができなくてはならぬ。
いつまでも弟子のままでいるのは、
師に報いることにはならない。
なぜ君たちは、
わたしの花冠をむしり取ろうとしないのか。

(贈るという徳について)

宗教では教祖が絶対であり
その教えを疑うことはタブーですが、
哲学では、先達の思想を疑い
それを乗り越えることが
正しい姿勢とされています。

ツァラトゥストラのいうように、
ただニーチェの思想を
盲目的に崇拝するのではなく、
その思想を元にして
時代にあった新しい思想を
自分の中で打ち立てていくことが
最も理想的な読者の在り方なのかもしれないですね。

諸君はまだみずから自身を探し求めなかった。
そこでわたしを見つけた。
いつも信者とはそういうものだ。
だから信じるということはたいしたことではない。

(贈るという徳について)

何らかの信者というのはえてして
他者に依存することで、自分の
心の空白の埋め合わせをしています。
(カルト宗教の勧誘が、
身内に不幸があったりして
心の弱っている人を狙うのはまさにそのため)

ツァラトゥストラ
そんな病的な生き方を否定し、
もっと自分自身に目を向け
健全に生きろと諭します。

全ての神々は死んだ。
いまわれらは、
超人が生まれることを願う。

(贈るという徳について)

1章を締めくくる言葉。
ニーチェの死から100年あまり。
果たして超人は地球上に現れたのでしょうか?

わが友よ、
わたしは諸君に忠告する。
ひとを罰したいという衝動がつよい者は、
誰であっても信用するな。

(毒ぐもについて)

ツァラトゥストラは平等の名の下に、
ひとを裁くことに至上の幸福を覚える人種を
、毒ぐもと呼んで蔑みます。

加えてツァラトゥストラは、
人間は平等などではなく、
また平等になるべきでもない
とまで言い切ります。

平等の是非はさておき、
人を許すことが出来ず、
罰せねば気が済まないという人は
たしかに世の中に一定数存在します。
(そしてそういう人を敵に回すと
大概厄介なことになるものです...)
毒ぐもとはまさに、ニーチェの言う
ルサンチマン(妬み)の象徴なのでしょう。

犬が狼を憎むように民衆が憎むものがある。
自由な精神だ。
束縛の敵となる者、
崇拝を拒む者、
森に棲む者だ。
彼らをその隠れ家から狩り出すことが、
–民衆が言う「正義感」だ。

(有名な賢者たちについて)

ツァラトゥストラ
民衆を犬にたとえて語った台詞。

自由というと、かけがえのない
素晴らしい価値というのが
一般認識ですが、もし目の前に
一切の道徳や社会規範から
完全に自由な人間が現れたなら、
大抵は周囲から恐れられ警戒されるでしょう
(自分たちのルールが通用しないから)。

このように、真の意味で自由な人間とは
自然に孤立してしまいそうなものですが、
ツァラトゥストラは、
優れた者はむしろ進んで
孤独になるべきだと説きます。

余談ですがこのセリフを読んで私は、
映画イージーライダーに登場した
弁護士ジョージ名セリフ
「人は個人の自由については、
いくらでも喋るが、
自由な奴を見るのは恐い」
を連想しました。

傷つけることができないもの、
葬り去ることができないものが
わたしのなかにある。
岩をも砕くものが。
それはわたしの意思だ。
それは黙々として歩み続け、
幾歳月も変わることがない

(墓の歌)

「意思の力」もまた頻出ワード。
しかしな毎度ながら勇ましい教えです。

定期的に仕事でミスをやらかして
丸一日落ち込んでしまう
私のような人間には
超人への道はなかなか厳しそうですね(笑)

善と悪において
創造する者にならねばならない者は、
まさに、まず破壊する者となって
さまざまな価値を砕かざるを得ない。
だから最高の悪は
最高の善の一部だ。
そして最高の善とは、
創造的であることだ。

(克己について)

ツァラトゥストラは悪もまた
善の一部なのだと説きます。

この考えは西洋の伝統的な
一神教的世界観からすると異端であり、
かなり東洋よりの思想に思えますね。
(ちなみに、ニーチェが影響を受けた
ショウペンハウエルは仏教に傾倒し、
仏教は完璧だとまで言ったそうです。)

補足1 : 作品の書かれた時代と思想背景

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↑全寮制の名門校で学んでいた当時17歳のニーチェ

ニーチェは1844年、
裕福なルター派の牧師の家に生まれます。
19世紀のドイツは、当時各地に
散らばっていた諸侯をプロイセン王国
連邦の盟主として統一、さらに1870年、
対仏戦争の勝利を契機として悲願であった
統一ドイツ帝国の樹立を達成します。

そして同時に訪れた産業革命によって、
ドイツ全体が近代国家として
急激な発展を迎えた激動の時代でした。

国の経済が潤ったことで
人々の生活は向上し、食糧事情や
医療環境は大幅に改善されます。
(ちなみに社会保障もこの時期に
ビスマルクが世界で初めて実施しています。)

しかし、暮らしが豊かになるにつれて
人々はだんだんと神を必要としなくなり、
キリスト教や教会は経済と反比例して
民衆に対する影響力を失っていきました。

ツァラトゥストラ」でニーチェが説いたのは、
そんな神が必要とされない時代における
(ニーチェ流の)あるべき人間の生き方です。

このようなニーチェの思想は、
19世紀ドイツよりさらに豊かな
21世紀の日本に住む私たちにも
無縁ではなく、100万部を超える
ベストセラーになった「超訳 ニーチェの言葉」
に代表されるように、近年になって再び
熱い注目を集めるようになっています。

今回ご紹介する「ツァラトゥストラ」は
そんなニーチェの思想のエッセンスが
凝縮された代表的著作であり、
読むたびに新鮮な驚きを与えてくれる
書物なのです。

補足2 : 執筆にあたって参考にした書籍

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

2015年に河出文庫から出版された
かなり新しいツァラトゥストラの翻訳書。
翻訳は思想家、作家でもある佐々木中氏。
(※本記事の引用部分は全て本書からの引用です。)

有名な岩波版に比べて
適度にくだけた表現が使われており、
読み物として自然に読むことができます。

ただし、注釈や解説などは一切なし。
理解を深めるために、ネットと
他の解説書と併読すると良い感じです。

最後に

ツァラトゥストラの口を借りて
ニーチェが綴った言葉たちは、
あなたにどう響いたでしょうか。

今回ご紹介したものは、
全体の一部でしかありませんが、
ひとつでも心に残る
言葉があったなら幸いです。

そしてもし、原書を未読の方が
おられましたら、ぜひこの機会に
書籍の通読にチャレンジしてみてください。
(ニーチェの著書は文学的な向きもあって
哲学書としては頗る読みやすい部類ですよ)

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