「井の中の蛙」で有名な壮子の思想を分かりやすく解説!【万物斉同、道(タオ)】

哲学

壮子とは

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荘子(そうし、紀元前369年頃 - 紀元前286年頃)

壮子とは、今からおよそ
2300年前の中国戦国時代中期に、
諸子百家の一人である荘周
その弟子らによって成立した思想書のこと。

荘子が語るのは、
世俗の価値観を超えた
深淵なについての思想であり、
孔子老子墨子荀子らと並んで、
今なお、東アジアの思想、文化に
多大な影響を与えている書物です。

書物としての荘子は、
内篇外篇雑篇の三篇に別れており、
そのうち荘周その人の手によるものは
内篇のみで、外篇、雑篇は
荘周の弟子や、後世の人々による
創作であると見なされています。

その内容は道(タオ)無為
など、老子と共通する部分も多く、
老子荘子の思想を合わせて
老荘思想と呼ぶこともあります。

また、論語で知られる孔子の影響も大きく、
荘子の寓話の中には、
聖人の代表格として孔子その人が
登場するものがいくつもあります。

しかし、孔子の思想を受け継いだ
当時の儒学者に対しては
批判的な面もあり、
特に口先の理屈に終始し、
権威に凝り固まった荘子の時代の
孔子学派の学者たちに対しては
これでもかと言わんばかりに
痛烈な批判を展開しています。

荘子と日本

荘子の思想は
私たちの住む日本とも
深い関わりを持っています。

荘子日本書紀万葉集の記述から
遅くとも8世紀より前に
日本に伝来したとされており、
鎌倉時代歌人吉田兼好西行法師
江戸時代の俳人松尾芭蕉
明治の文豪芥川龍之介
そして近現代においても、
ノーベル物理学賞受賞の湯川秀樹や、
荘子の一節を引いて、
「未だ木鶏たりえず」と語った
横綱双葉山に至るまで、
歌人、学者、スポーツ選手など
各界の超一流に
愛読されてきた歴史があります。

また、荘子の思想というと、
なんだか崇高で超越的なものを
イメージされがちですが、
胡蝶の夢井の中の蛙朝三暮四など、
私たちに身近なことわざの中にも
荘子由来のものが多数あったりと、
その思想は日本人の思想、
文化の根底に息づいています。

荘周の生きた時代と思想背景

ある人の思想を知るには、
その人の人生を知ることが近道です。

荘子を書いた荘周とは、
いったいどんな人物だったのでしょうか。

思想家の荘周については、
司馬遷史記に最古の言及があります。

莊子者,蒙人也,名周。
周嘗為蒙漆園吏,與梁惠王、齊宣王同時。
其學無所不闚,然其要本歸於老子之言。

(荘子は宗の蒙に生まれて、
名を周といい、
かつて蒙で、漆園の官吏となった。

梁の恵王や斉の宣王と同じ時代の人だ。
その学問は深遠にして広大であるが、
その根本は老子の流れを組むものだった。 )

(史記-列傳 老子韓非列傳より)

そしてその荘周が生きたのが、
かの人気漫画『キングダム』
舞台にもなった古代中国の戦国時代

その名が示す通り、
の7大国が
中国大陸の覇権を巡って
終わりなく争った混迷の時代です。

民は兵に駆り出され、
王宮は権謀術数が渦巻き、
人の命が紙切れ以下の
重さしか持たなかったこの時代、

荘子は世俗と距離を置き、
『なぜ人は苦しむのか』
についてひたすら頭を悩ませました。

そうしてたどり着いたのが、
老子が記した「道(タオ)」と
万物斉同という二つの思想です。

道(タオ)とは何か

道ハ聞クベカラズ、聞ケバソレニアラズ。
道ハ見ルベカラズ、見レバソレニアラズ。
道ハ言ウベカラズ、言エバソレニアラズ。

(『荘子』知北遊篇)

荘子がこう述べているように、
道とは本来、決して
言葉では説明できないものです。

それでもあえて
「道」を言葉で表すならば、
人間の知性や論理を超えた
万物の自化自生の理、
一種の自然法
といった意味が
最も近いでしょうか。

イマダ生ゼザルトキハ忌ムベカラズ 、
已ニ死スルトキハ阻ムベカラズ 。
死ト生トハ遠キニアラザルモ理ハ覩ルベカラズ 。

… …吾レ之ガ本ヲ観ルニ 、
其ノ往クヤ窮マリナク 、
吾レ之ガ末ヲ求ムルニ 、
其ノ来ルヤ止マルナシ

。窮マリナク止マルナキハ 、
言ノ無キトコロナリ 。

(この世に生まれる前に
生まれることを拒否することはできず、
生まれてしまえば死を拒否することはできない。

なぜ私がこの世に生まれて来、
なぜ死ななければならないのか、
その根源的な理由は
いくら問い続けても終わりがない。

始まりもなく終わりもないのだから、
言葉によって語り尽くすこともできない。)

(『荘子』則陽篇)

なぜ生物は生まれ、
そしてなぜ死なねばならないのか?
そしてそもそもなぜ
私が今ここに存在しているのか?

その問いに対して
人間の知でいくら考えても
答えるすべはなく、
荘子はそうした自化自生の理を
総称じてと呼んだのです。

万物斉同という思想

道と並んで
もうひとつ興味深いのが
荘子の代名詞とも言える
万物斉同という思想です。

万物斉同とは、
ざっくり言ってしまえば
私たちが存在しているこの世には本来、
善悪、賢愚、醜美、然不然、自他
といった区別はなく、あらゆるものが
道において同一である
という思想であり、
すなわち万物斉同とは
分別による絶対視の否定です。

この万物斉同の思想を
端的に示すエピソードとして
『道は屎溺(しにょう)にあり』という
有名な逸話があります。

ある時、宋の東の郊外に住む
東郭子という哲学者が
荘子の元を訪れてこう尋ねた。

「道とは一体どこにあるのですか?」

荘子はそれに対しこう答えた

「道がないところなどない」

東郭子はその答えに納得せず、
「もっと具体的な例をあげてください」
とさらに質問した。

すると荘子は今度はこう答えた。

「螻虫の中にある」

東郭子は意表を突かれたような
顔をしてこう言った。

「そんな下等なものの中にですか。」

それに対して荘子はさらにこう答える。

「イヌ稗の中にある。」

東郭子が答える。
「それはもっとひどい」

さらに荘子
「瓦の中にある。」

東郭子が答える。
「それではますますひどい。」

さらに荘子
「糞小便の中にある。」

この答えを聞いた東郭子は
とうとうあきれて黙り込んでしまった。

このエピソードの中で荘子は、
虫けら、ましてや
糞尿のような下等なものの中にも
道があるのだと説き、
道がもっと崇高なものと考えていた東郭子は
その答えに面食らっています。

しかし、荘子に言わせれば
そうした下等・上等という価値判断は
あくまで人間基準の一面的なものでしかなく、
決して絶対的なものではありえません。

例えば、美醜は時代や地域によって
判断基準が目まぐるしく変化します。

平安時代の美人と
平成の美人は似ても似つかず、
また、例えば首長族の美人の基準と
私たち日本人の美人の基準も異なります。

また、道徳や正義も同様に相対的なものです。
そして、人間の最大の武器とされる知性
核兵器が蔓延する現状からわかるように、
行き過ぎれば
自らを滅ぼす危険をはらんでいます。

そして荘子は、こうした
相対的でしかない価値判断を絶対化し、
自己と他者を区別してしまうところから、
差別、嫉妬、争い、虚栄心
といったあらゆる人間の不幸が
始まるのだ
と指摘したのです。

万物ハ理ヲ殊ニシテ
道ハ私セズ。
(一切万物はそれぞれに理をやどし、
道は人であろうと鳥獣草木であろうと
分け隔てなく扱う)

(『荘子』則陽篇)

大国同士が争い、互いを否定し合う
血なまぐさい戦国時代を生きた荘子は、
分別が引き起こす不幸について、
平和な時代を生きる私達より
おそらくずっと鋭い実感を伴って
日々を生きていたのでしょう。

そして、そうした実感こそが、
分別を否定する万物斉同
思想につながった
と考えれば、
一見とっつきにくい万物斉同の思想も
いくぶん腑に落ちるように思えます。

「遊」について

天地の正に乗じて、六気の弁に御し、
以て無窮に遊ぶ者は、
彼且た悪くにか待たんや。
故に曰く『至人は己無く、
神人は功無く、聖人は名無し』と」

(天地の自然に身を任せて、
終わりのない無限の世界に遊ぶものは、
一体何を顧みることがあるだろうか。

そこで、『至人は自我に囚われず、
神人は功績を築かず、
聖人は世間に名を残さない』と言うのだ。)

(『荘子』逍遥遊篇)

荘子を知る上で
もう一つ重要なキーワードが
「遊」の概念です。

荘子の言う「遊」とは、
自由に動くと言う意味であり、
一つの考えや価値観に固執しない
自由な自己を持つこと
を意味します。

遊もまた解釈が難しい概念ですが、
私の場合、他者の価値観に流されず、
今この瞬間を大切に生きること

「遊」を実践することではないかと
受け取っています。

荘子の名言、ことわざをご紹介

胡蝶の夢

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昔、荘周は自分が蝶になって
心地よく舞っている夢を見た。
その間、自分が荘周であるということは
すっかり頭から消え失せていた。

ふと目がさめると、
自分はまぎれもなく荘周である。

荘周が夢の中で胡蝶となったのか、
それとも(本当は自分は蝶で)
蝶が荘周となった夢を見ているのか。

荘周と蝶とは確かに異なる存在のはずだ。

しかし、主体としての自分に変わりはなく、
これが物の変化と言うものである。

荘子を読んだことが無くても、
この胡蝶の夢は知っている
という方は少なくないはず。

夢と現実の関係性を通して、
自己の実在性を問う挿話であり、
人間の知による判断の不確かさ
鋭く突いています。

人間の荘周である自己と蝶である自己。
一方が本当の自己と断言することはできず、
強いて言えばその時感じている世界が
本物というしかありません。

このように、知性による判断は
本質的に根拠のないもの
であり、
よって、知性の区別から生まれる
美醜賢愚善悪といった価値観も
決して絶対的なものとは
なり得ない
のです。

荘子は、そうした価値判断や
目的意識から離れた自由な境地に達し、
自然と融和する自由な生き方
逍遥遊と呼び、
人間の理想的なありかたとして位置付けました。

坎井の蛙(井の中の蛙)

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崩れた井戸に住むカエルが、
東海の海亀を誘ってこう言った。

「ああ、なんて楽しんだろう!
井戸のふちを飛び回ったり、
崩れた壁の上で休んだり、
水中から顎を出して周りを眺めたり、
泥に足を埋めて遊んだりするのは!

それに、カニやおたまじゃくしといった
周りの奴らは私の足元にも及ばない。
この井戸の中では
私が水を独り占めできるんだ。

これより楽しいことがあるだろうか。
海亀さん、あなたも
入ってみてはどうですか?」

しかし、海亀は井戸に入ろうとしても、
左足が入る前に右の膝がつっかえてしまう。

亀は入るのをやめ後ずさりしてこう言った。

『私の住む東海は、
千里よりもなお広く、
千仞よりもなお深い。

兎(古代中国の
神話伝説時代の帝王の一人)の時代には、
十年の間に九度の洪水があったが、
その大水でも海の水かさは変わらなかった。

湯(兎の次の帝王)の時代には
八年の間に七度の干ばつがあったが、
それでも海の水かさは変わらなかった。

多少の時間の推移や
水の量の変化ではその営みは変わらない。

それが東海の楽しみだ。』

これを聞いたカエルは、
びっくり仰天して
目を回してしまったとさ。

誰もが知っているこのことわざも、
元をたどれば荘子発祥。

狭い世界にとどまって、
自分より下の存在を見下し
ふんぞりかえっているカエルには、
海の広大さは理解できないという
お話です。

荘子の思想を踏まえて考えるなら、
東海とは道の喩えであり、
このお話は、大局的な視点を持たず、
自分の立っている場所から見える知識だけで
すべてを分かった気になる愚かさを
揶揄するために書かれたもの
と思われます。

朝三暮四

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宋の国に狙公と呼ばれる
猿好きの男がいた。

しかしあるとき狙公は貧乏になり、
飼っている猿たちに与える餌を
減らさざるを得なくなってしまった。

そこで狙公はまず、
「おまえたちにトチの実を
朝に四個、晩に三個をあげよう」
と猿たちに提案した。

それを聞いた猿たちは
みな立ち上がって怒り出した。

その様子を見て狙公は今度は
「では朝に四個、晩に三個の
トチの実をあげることにしよう」
と言い直した。

すると、猿たちは
打って変わって喜んだと言う。

朝に3個、晩に4個貰おうと、
朝に4個、晩に3個もらおうと、
貰えるトチの実の合計は7個で同じなのに、
まんまと騙されて喜ぶ猿の姿に重ねて、
本質を見ず、表面上の言葉に踊らされる
人間の滑稽さを揶揄したお話です。

考えてみれば
こういう言葉のトリックは、
為政者や政治家、企業のお得意であり、
私の場合、少し前に問題となった
クレジットカードのリボルビング払いによる
多重債務問題を思い出してしまいます。

寿陵の余子

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寿陵(中国北方の田舎町の名)に住む若者が、
邯鄲(趙の首都)の人々の
スマートな歩き方に憧れて上京し、
その歩き方を学んだ。

ところが、寿陵はスマートな
邯鄲の歩き方を習得できなかったばかりか、
自分の本来の歩き方すら忘れてしまい、
七転八倒、這いつくばりながら
やっとの思いで家まで帰ったという。

このお話は、
自分の本質を忘れて他人の真似をするものは、
結局両方とも失う
ことを例えています。

流行りの芸能人や
アニメのキャラクターに憧れて
そのファッションや仕草を真似するのは
誰もが若い頃に通る道ですが、
それがそのまま自分の生き方として
定着した人は殆どいないのではないでしょうか。

この寿陵の余子の寓話は、
あるがままの自分を受け入れ、
主体性を持って生きることの
大切さを教えてくれています。<
/p>

ちなみに、かの芥川龍之介
この寓話にあやかって、
寿陵余子というペンネームで
作品を発表していた時期があったりします。

最後に

以上で当記事の解説を終了します。
私の理解に基づいた、
拙い内容の記事ではありますが、
ここまでお読みくださった皆様にとって
僅かでも得るものがあったならば幸いです。

荘子の思想は孔子孫子のように、
処世術として使えるものではありませんが、
その思想には九万里の高みから
大地を見下ろすような広大な視点があり、
私たちに自由な逍遥遊の境地を
垣間見せてくれます。

知識より体験を、
秩序より混沌を愛した荘子
その分別を超えた思想の中にこそ、
現代の私たちが頭を悩ませている
差別やいじめ、戦争等の問題を解決する
ヒントが隠されているように思えます。

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