ジョジョ六部はなぜ意味不明で不人気なのか

ジョジョの奇妙な冒険

先日、私の毎週の楽しみとなっていた
ジョジョ五部黄金の風の地上波アニメ版が
とうとう最終回を迎えました。

四部以前と比べて作画も向上し、
アニオリや演出などもスタッフの本気が感じられ
最後まで楽しめる良アニメ化だったと思います。

そしてこうなると当然期待されるのが
続く第六部、ストーンオーシャンのアニメ化です。

しかしこの六部、様々な点で癖が強く
ジョジョファンの間でも
大きく好き嫌いの分かれる部でもあるのです。

ご注意!:本記事にはジョジョの奇妙な冒険第六部 ストーンオーシャンに関するネタバレが多量に含まれます。閲覧の際はその点をご了承ください。

ビッグデータから見る六部の評価

tech-camp.in

ジョジョ六部への評価に関する
客観的なデータとして
まずご覧いただきたいのが
2018年8月14日にて実施された
ファン参加型イベント
ジョジョサピエンス
「ジョジョで一番好きな部は?」
という質問に対する回答データです。

このアンケートでは
1万7000件ものリソースをもとに
結果を算出しているため
ファン全体の傾向を知る上では
現状最も信頼できるデータであると言えます。

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荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋 公式ツイッター(@JOJOex_2018)より

さて結果はご覧の通り、
六部は得票率8.5%で
人気順がワースト3位
という
やや苦しい順位となってしまいました。

現行未完作の8部、
最初期作の1部には僅差で勝ったものの、
ワースト4位の七部に対しては
4%近い大差をつけられている
という
六部ファンにとってはちょっと悲しい状況です…

またこの結果は私自身の
経験ともよく符合するものであり、
今まで周囲のジョジョ読者に
好きな部を聞いて返ってきた答えの
割合はほぼこのアンケートの
結果に一致していました。
(ちなみに私の周囲では
好きな部の答えで一番多いのが4部、
次いで5部、3部、2部、7部で
その後にちょっと離れて6、1、8部
といった感じでしたね、)

なぜ六部の人気はイマイチなのか

私はこのように
六部の人気が今ひとつ
振るわない原因について
「それまで絶妙なバランスで
収まっていたジョジョ特有の
謎理論や超展開が
六部でついに大半の読者の
許容範囲を逸脱してしまった(=意味不明になった)」

ことを最大の要因だと考えています。

実を言うと、六部が抱える
この「意味不明」という問題は
五部以前ですでにその片鱗が表れているように思えます。

例えばスタンドの複雑化という意味であれば
四部のバイツァ・ダストの時点ですでに
「非スタンド使いに取り憑く」、
「吉良の正体を探られると起動する」
「時を巻き戻す」、「時を巻き戻した時間になると
吉良の正体を探った人間を爆破する」
といったようにかなり説明に苦労する
複雑な能力となっていますし、
続く五部ではキング・クリムゾンや
チャリオッツ・レクイエム、
ゴールド・エクスペリエンス・レクイエムなど
さらに難解な能力が多数登場しています。

そして六部ではそうした
ある種読者を置いてきぼりにするような
ジョジョの悪い面が
これまで以上に顕著化してしまい、
結果として多くの読者が
話についていけなくなって
しまったように思えるのです。

ジョンガリ・A戦〜最序盤の重要なバトルなのに意味不明すぎる迷バトル〜

六部不人気の理由を
能力の複雑化が原因と仮定した上で
今度はその実例を取り上げてみましょう。

ジョンガリA
(荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 第六部 2巻』集英社 より引用)

さて、六部既読者のみなさまは
この人物を覚えていますでしょうか。

彼の名前はジョンガリ・A
かつてDIOに仕えていた狂信者であり、
徐倫が承太郎と初の脱獄を試みる
六部最序盤(コミックスでいうと2巻)
に登場した敵スタンド使いです。

このジョンガリ・Aとのバトルは
その後の物語の方向性を決める
ある意味ターニングポイント
とも呼べる重要な回だったのですが、
しかし哀しいかな、このバトルは
何度読んでも本当に意味不明なのです。

まずジョンガリ・Aの能力自体は
本体の持つライフルと気流を読むスタンド
マンハッタン・トランスファーによる
正確な射撃という比較的オーソドックスなものです。

このバトルを必要以上に
複雑で難解なものにした原因は
ジョンガリ・Aの背後に隠れていた
六部の黒幕、ホワイト・スネイクの
ある能力にこそありました。

その能力とは
対象を眠らせて幻覚を見せ、
眠っている間にその肉体を
徐々に溶かすという一種の幻覚能力。
(※ちなみにこの眠らせる能力が
登場したのは初回限り。
能力が時期によってコロコロ変わるのは
ジョジョではよくあることです
)

そしてこの幻覚能力の描写が曲者で、
例えば
「徐倫の機転でジョンガリ・Aを倒した!」
→「と思ったら実はそれは幻覚でした」
→「と思ったら幻覚と気づいたのも幻覚でした」
…といった具合に物語の展開が
幻覚のミルフィーユ構造になっていて
どのシーン真実でどのシーン幻覚なのか、
読んでいて非常に頭が混乱する内容に
なってしまっていたのです。

こうした凝った見せ方が悪いとは言いませんが
この回に限ってはその仕掛けが面白さよりも
意味不明さを増す方向にばかり
働いてしまっていましたし、
なにより六部も始まったばかりなのに
こんな難解度「超スゴイ」レベルの
厄介なお話を描いてしまって、
六部から読み始めた新規読者が
これで一気に離れてしまったんじゃないかと
余計な心配をしてしまったものでした。

スタンドバトルの勝ち負けに納得感がない

先の段落でジョンガリ・A戦を
取り上げましたが、この回に限らず
六部への批判意見の中には
スタンドバトル全般に対する批判が少なくありません。

それら批判内容をさらに詳しく見ると…
・スタンド能力が複雑化しすぎ
・勝敗の理由に納得できない
・超理論が多すぎてついていけない
・過去作との能力のアイディアかぶり
などなど。

こうした複数の要因が積み重なった末に
「六部は意味不明」という共通了解が
醸成されていったのでしょう。

思い返せば私も六部には
何度読み返しても
「理解不能」なバトルが
いくつかありました。

それは例えば次のとある一戦です。

徐倫vsミューミュー

新しい出来事を3つまでしか
記憶できなくするするスタンド、
「ジェイル・ハウス・ロック」を操る
ミューミュー看守に主人公の徐倫が
エンポリオとタッグで挑んだこのバトル。

この対決で私が引っかかったのは
「ジェイル・ハウス・ロックの能力が
あまりに曖昧すぎた」ことです。

例えば作中のある攻防。
ジェイル・ハウス・ロックの術中に陥った
徐倫に向かってミューミューが
「大量の銃弾」を連射する場面がありました。

ここでミューミューは
一度に4発以上の銃弾を撃ち込むことで
3つまでしか事実を認識できない徐倫に対して
実質的に防御不可避の攻撃を
仕掛けようと目論んだ
わけですね。

しかし徐倫はこの攻撃を
「飛んできた銃弾は4発以上でも
床の水たまりに映った
銃弾の像はたった一つの事実」

という理屈のもと、床の水たまりに
映った銃弾を見てそれらをすべて
弾き飛ばして防御してしまいます。

…さてこの理屈、あなたは
納得することができたでしょうか?
少なくとも私には無理でした。

ジョジョであれば大抵の超理論や
ガバ展開は受け入れてきた私でも
さすがにこれを初めて読んだときは
「たとえ水に映った像でも
銃弾の数自体は変わらないのだから無理だろ
」と
思わず心でツッコミが出てしまいました。

またこの対決は決着方法も微妙で
最後はエンポリオがパソコンで
2進数に変換したミューミューの顔画像を
徐倫がストーン・フリーの糸でプリントアウトして
(いつからストフリに印刷機能がついたんだ?)
ミューミューが敵であることを思い出して勝利、
という思わず首をひねってしまうもの。

総じてアイディアこそ面白いものの
それを読者が納得する形で
スタンドバトルに昇華しきれなかった、
という印象が残るちょっと残念なバトルでした。

ラスボス(プッチ神父)の目的が意味不明すぎる


(荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 第六部 カラー版 17』集英社 より引用)

私が六部に入り込めなかった
もう一つの大きな理由がラスボス
プッチ神父の目的のわかり辛さです。

これまでのジョジョの
ラスボスの目的といえば
例えばディオは「他者を支配すること」
カーズは「太陽を克服し生物の頂点に立つこと」
吉良は「平穏に暮らすこと」
ディアボロは「過去を消し、
裏社会の頂点に君臨し続けること」

といった様に比較的わかりやすい、
シンプルなものばかりでした。

しかしプッチ神父の目的は
「DIOが遺した天国へ行く方法を実行すること」
という一見なんだかよく分からないものであり、
さらにその過程も「DIOの骨を復活(?)させたものに
囚人の魂を捧げて生まれた緑色の赤ん坊に
十四の言葉を聞かせることで融合し、
その状態で新月の時に地上で最も
重力が弱い場所に行く」
という
やはりよく意味が分からないものでした。

おまけにこの「天国」が
具体的に何を意味するかについては
作品の最終盤で実際にそれが実現するまで
読者に明かされることはありません。

そのため私は物語を読み進めている間、
プッチの危険性があまり伝わって来ず※、
そのためにプッチを阻止しようとする
徐倫たちに対してもこれまでの部と比べて
あまり強く感情移入することができなかったのです。
(蓋を開けてみれば、シリーズ史上最も
やばいことをしでかしたラスボスはプッチでしたが…)

また、プッチ神父は
そのキャラクター性に関しても
今までのボスたちとは別方向でアクが強く、
そのうえ六部はある意味プッチ神父の
物語と呼べるほど最初から最後まで
プッチ神父が暗躍し続けるので
もしプッチ神父のキャラクターが
肌に合わないと、六部の物語を追うのが
少々辛くなることが予想されます。

プッチ神父のキャラクターを
簡潔に言い表すと
「思い込みの激しい、行動力のある、
自分の行動を善だと信じて疑わない狂人」

といったところ。

自分の価値観が
他人にとっても絶対であると信じこみ、
自分の考える善い行いのためならば
どれだけ他人が犠牲になろうが厭わないという
まさに正真正銘の「最もどす黒い悪」なのです。

しかもそんな極悪人でありながら
プッチ神父のしぶとさ、しつこさといったら
今までのボスたちの比ではありません。

プッチは作中で幾度となく
徐倫たちに追い詰められるものの、
その度に「人質(承太郎のDISC)を使ったり」、
「運命が味方したり」といった
様々な理由で危機を脱し、
そして最終的にはまさかの
主人公チーム皆殺し(エンポリオ以外)という
大金星まで上げてしまうのです。

このように六部の物語は
終始プッチを中心に回っており、
もしある人がプッチに対して
悪役としての魅力を感じられなければ
六部自体の評価も少なからず落ちるでしょうし、
ましてやプッチが徐倫や
承太郎を殺害するなどという展開を
受け入れることなどできないでしょう※。
(※実際この回は連載当時も大きな物議を醸しましたし、
私自身もかなり長い間この展開を
受け入れることができませんでした。。)

そしてもし六部がアニメ化されて
徐倫たちの死亡回が放送されたとして
そのとき視聴者の賛否が一体どう分かれるのか。
ある意味非常に興味深いところではありますね。

六部の好きなところ

さて、ここまで
散々六部の悪い点を
あげつらってきましたが、
今度は反対に私が六部の
気に入っている部分を
挙げてみることにします。

「愛」というテーマへの一貫性

六部では
様々な形の「愛」が描かれます。

承太郎と徐倫の父娘の愛であったり、
アナスイから徐倫への男女の愛であったり、
プッチからペルラへの悲劇的な兄妹愛であったり…

この「愛」という
ひとつのテーマへの
真摯な一貫性において
六部は他の部を圧倒的に
凌駕していると私は考えます。

特に、プッチからペルラへの愛は
その結末の悲劇性ゆえに
「愛」のもつネガティブな面について
深く考えさせられる
非常に重く深みのある挿話でした。

キャラ/スタンドデザインの秀逸さ

これは個人的な感覚の話ですが
六部のキャラクターデザイン
スタンドデザインは結構好みだったりします。

因みに私が六部で
好きなキャラクターは徐倫とウェザー(見た目も中身も)。
スタンドデザインなら
ダイバー・ダウンとC-MOONが好きでしたね。

ラストシーンの美しさ

六部にこれだけ批判意見がある中で
一方根強いファンも少なくない最大の理由が
このラストシーンの美しさにあるのではないでしょうか。

プッチの「天国」が不完全に終わり、
一巡した新しい宇宙に
たったひとり前の宇宙の記憶を保ったまま
放り出されたエンポリオ。

そんなエンポリオが
前の宇宙で死亡したエルメェス、
徐倫、アナスイの生まれ代わりたちに出会い、
彼らと共に車で旅立っていく。

そして、雨のハイウェイを走る
車の行く先には、やはり前の宇宙で死亡した
ウェザーそっくりのヒッチハイカーの姿が…

主人公チームがほぼ皆殺しになり
宇宙そのものすらリセットされるという
直前の絶望的な状況を一瞬忘れさせるほど
希望に満ちた見事なラストシーン。

この場面に限っては
本当になんの文句もありませんね。

さいごに

なんだかんだ欠点を挙げてしまいましたが
個人的にはやはり六部もアニメ化して欲しいですね。

むしろ、アニメ化して動きがつくことで
漫画では分かりにくかったシーンが
分かりやすくなることがあるかもしれません。

それでは、
六部のアニメ化を祈念しつつ
本日はこれにてお別れとさせていただきます。
最後までお読みいただき誠にありがとうございました。

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