クリシュナムルティ入門。苦しみの根底にある『思考の罠』とは?

クリシュナムルティ近影哲学

クリシュナムルティとは?何をした人?

自らが数千人規模の宗教団体の指導者の立場にありながら
「真理に至る道は組織化することはできない」として団体の解散を宣言し、
あらゆる伝統、権威、宗教を否定する独自の思想を展開したことで
欧米社会を中心に大きな思想的影響を及ぼした
南インド出身の思想家、教育者、著作家のジッドゥ・クリシュナムルティという人がいます。

本日はそのクリシュナムルティの講和の中でも特に重要なものを
クリシュナムルティ自身の監修のもと纏めた以下の書籍の内容を引用しつつ、
入門編という形でその一端に触れるための簡単な解説を試みてみたいと思います。

クリシュナムルティの生涯

クリシュナムルティの思想に触れる前に、
クリシュナムルティのバックグラウンド、経歴について簡単におさらいしておきましょう。

1895年に南インドのマドラスでバラモンの家系に生まれたクリシュナムルティは
14歳の頃に神智学協会で事務職をしていた父のつながりで
神智学協会の幹部であるチャールズ・W・レッドビーターに見出され、
ヨーロッパの神智学協会に引き取られることになります。

神智学協会とはロシア出身のヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキーと
弁護士で名誉大佐のヘンリー・スティール・オルコットを含む
数名のオカルトに関心のある人々によって
1875年にニューヨークで設立された宗教団体です。
その初期のメンバーには発明王トーマス・エジソンもいました。

神智学協会は「宇宙を支配している法則についての知識を収集し普及させること」を標榜し
のちにインドに拠点を定め、仏教やヒンドゥー教の思想を西洋へ普及させることにも貢献しましたが、
しかし教団幹部のレッドビーターが弟子の少年たちにみだらな行為を行為を強制していたり、
そもそも創始者の一人であるブラヴァツキー夫人が心霊的トリックを暴露されて
活動拠点にしていたインドを追われていたりと、
こうした団体のお約束としてその実態にはかなりきな臭い部分がありました。

1911年にはオルコットの後を継いで協会の2代目会長となったアニー・ベサントが
「東方の星教団」を設立。
さらに世界の救世主となる器であるとしてクリシュナムルティをその団体の長に指名します。

16歳にして教団の指導者となったクリシュナムルティは
その後ヨーロッパ各地を回ったり
1921年には再びインドに戻ったりして活動を続けますが
1929年、クリシュナムルティ34歳の頃に当時3000人の信者がいた教団の解散を宣言し、
神智学協会からも距離を置くようになります。

以下は団体を解散するときにクリシュナムルティが語ったとされる宣言です。

(原文 )
I maintain that truth is a pathless land, and you cannot approach it by any path whatsoever, by any religion, by any sect. That is my point of view, and I adhere to that absolutely and unconditionally. Truth, being limitless, unconditioned, unapproachable by any path whatsoever, cannot be organized; nor should any organization be formed to lead or coerce people along a particular path. ... This is no magnificent deed, because I do not want followers, and I mean this. The moment you follow someone you cease to follow Truth. I am not concerned whether you pay attention to what I say or not. I want to do a certain thing in the world and I am going to do it with unwavering concentration. I am concerning myself with only one essential thing: to set man free. I desire to free him from all cages, from all fears, and not to found religions, new sects, nor to establish new theories and new philosophies.

(意訳)
私は、真理は道なき道であり、どんな道でも、どんな宗教でも、どんな宗派でも、真理に近づくことはできないと主張します。
それが私の見解であり、私はそれを絶対的かつ無条件に信奉しています。
真理は、無限であり、無条件であり、いかなる道によっても到達できないものであるから、組織化することはできないし、特定の道に人々を導いたり強制したりするために組織を形成することもできないはずである。
(中略) これは壮大な行為ではありません。
なぜなら私は信奉者を求めていないからであり、これは本心なのです。
誰かに従った瞬間に、あなたは真理に従わなくなるのです。
私は、あなたが私の言うことに注意を払おうが払うまいが、関係ありません。
私はこの世であることをしたいのであり、揺るぎない集中力をもってそれを行うつもりです。
私は人間を自由にするというただ一つの本質的な事柄に関係しています。
私は人間をあらゆる檻からあらゆる恐怖から解放したいのであって、宗教や新しい宗派を創設するためでも、新しい理論や哲学を確立するためでもありません。

原文はクリシュナムルティ財団公式サイト より引用

団体を解散したクリシュナムルティはその後、
関係の続いていたベサントの支援を受けながら
アメリカやヨーロッパを回る講演旅行を決行。

元々宗教的指導者だったクリシュナムルティが
宗教の組織化を真っ向から否定したことは
当時の欧米社会で大きな反響を呼び、
クリシュナムルティは一躍時の人となります。

著作も飛ぶように売れ、大実業家のようになったクリシュナムルティは
その後科学との関係を深め、特に理論物理学者のデヴィッド・ボームとの親交を深めていきます。

最終的に90歳まで生きたクリシュナムルティでしたが
1986年に末期の膵臓がんで死去。
最後の地となったのは生まれ故郷のインドではなく
アメリカのカリフォルニアでした。

クリシュナムルティの思想的特徴

クリシュナムルティ思想の根幹にあるものは
「あるがままの全体的知覚」です。

「全体的知覚」とは知覚している知覚者と
知覚されている対象の間に分離がない純粋な知覚状態のことであり、
人の全存在がそのような状態にあるときにのみ、
真理の知覚が起こるとクリシュナムルティは説きました。

また、生涯の項でも触れた点ですが
クリシュナムルティ思想のもう一つの大きな特徴として
徹底した権威、伝統、全体主義、宗教の組織化、思考、解釈などへの否定があります。

これらは全てあるがままの全体的知覚を妨げるものであって、
思考の罠、ひいては嫉妬や不安、憎しみといった
人間固有の苦しみの源にもなっていると考えたのですね。

以上が私なりにまとめたクリシュナムルティ思想の概要ですが、
しかし、これをお読みくださっている方に一つ留意していただきたいのは
クリシュナムルティ自身が、体験を伴わない
言葉だけの理解によっては彼の言う全体的知覚に到達することは出来ないと
書籍の中で何度も何度も繰り返し念を押している
点です。

あなたが「思考はつねに古い」とか「時間は悲しみである」といった言葉を聞くとき、
思考はそれを翻訳し、解釈し始めます。しかしその翻訳と解釈は昨日の知識と経験に基づいています。
だから必然的に、あなたはそれを自分の条件づけに従って解釈してしまうことになるのです。

しかし、もしもこれらの言葉を見て、それを解釈せず、ただそれに完全な注意(集中ではなくて)を与えるだけにすれば、あなたは観察者も観察されるものも、考えるものも考えられるものもそこには存在しないことを見出すでしょう。
ⅩⅢ. 思考とは何か─観念と行為─チャレンジ─物質─思考の始まり より

つまり、クリシュナムルティの思想について知ろうとするときには
クリシュナムルティが述べていることが
仏教で言う「悟り」に近いものであって、
数学の公式のように、それさえ覚えてしまえば終わりといった
生やさしいものでは決してないということを留意する必要があるということです。

それでは、前置きが長くなってしまいましたが
そろそろクリシュナムルティ自身の言葉を引用しながら
その思想の断片を見ていきましょう。

クリシュナムルティのことば

大切なのは、自分自身について学ぶこと

まずもってよく理解しておいていただきたいのは、
私は何らかの哲学や思想体系、神学理論の類をつくり出そうとしているのではないということです。
全てのイデオロギーは私には馬鹿げきったものに思われます。
重要なのは人生哲学ではなく、私たちの日々の生活の中で内的外的に実際に生起しているものを観察することです。

私たちが今しようとしていることは、従って、自分自身について学ぶことです。
私や分析家、哲学者に従ってそうするのではないのです。
なぜなら、他の誰かに従って私たちが自分自身について学ぶのなら、
私たちは自分自身についてではなく、彼らについて学ぶことになるからです。
私たちは実際の自分自身について学ぼうとしているのです。

昨夜はひどい雨でした。そして今、空は晴れ始めています。
新しいフレッシュな日です。
これが存在する唯一の日であるかのように、
この新鮮な日と出会いましょう。
昨日の思い出すべてを背後に置き去りにして、一緒に旅に出ようではありませんか─
そうして私たちは今初めて自分自身を理解し始めるのです。

Ⅰ. 自己関心─地位への渇望─恐怖と恐怖全体─思考の分裂─恐怖の終わり より

第1章より
特にクリシュナムルティの思想の真髄に
近いと思われる内容を抜粋しました。

クリシュナムルティのこうしたアイディアは
雑多な情報の氾濫にますます押しつぶされそうになっている
現代の私たちの心に静けさをもたらし、
新たな視点から世界を眺めるチャンスを
提供し得るのではないかと私は思うのです。

私たち一人ひとりの行動に世界全体への責任が伴う

戦争や革命、改革、法律やイデオロギーによってもたらされるすべての外的な変化は、
人間の基本的性質を、それゆえ社会の基本的性質を変えることには完全に失敗してきました。
この怪物的に醜悪な世界に生きている人間として、こう自問してみましょう。
この社会、競争と残酷さと恐怖に根ざしたこの社会を終わらせることはできるのだろうか、と。
たんなる知的な観念としてでも、希望としてでもなく、現実問題として、精神が生き生きとして新たな、無垢なものになる理、全く違った世界をもたらすことはできるのでしょうか?
私が思うに、それは私たち一人ひとりが、個人として、人間として、世界のどこに住んでいようと、どの文化に属していようと、世界の全体状況に責任があるのだという事実を認識する時にのみ可能になります。

ですから私たちが、知的にではなくて実際に、
空腹や痛みを感じるときと同じようにリアルなものとして、
あなたと私が共にこれら混乱のすべてに、世界中の悲惨さすべてに責任がある、
それは私たちが日々の生活を通じてそれに影響を及ぼしていて、
自分は戦争、分離、醜悪さ、野蛮さ、貪欲をまといつかせた
この非道な社会の一部であるからなのだ、ということを理解するときのみ、そのときにだけ、行動が生まれるのです。

Ⅰ. 自己関心─地位への渇望─恐怖と恐怖全体─思考の分裂─恐怖の終わり より

同じく第1章より抜粋。

クリシュナムルティは
わたしたちの一人ひとりが、
自分自身だけでなく世界全体に対して責任があるのだと説きます。

こうした考え方を理想論だといって切り捨てることは簡単ですが、
しかし、人類のこれまでの歴史や、
近年世界で起きていることを振り返ってみると、
一人ひとりがこうした自覚を持つことでしか
世界を変えていくことができないとするクリシュナムルティの指摘には
大いに耳を傾ける価値があるように思えます。

承認欲求は暴力的であり、恐怖から生じる

私たちの大部分は社会にしかるべき地位を得ることを切望しています。
自分が何者でもないことを恐れるからです。
社会は、尊敬される地位にある人は非常な丁重さを持って扱われるが、地位のない人間はこづき回されるようにできています。

内面的には私たちはみじめさと害毒であふれ返っているので、外面的に偉大な人物であるとみなされることが満足を与えるのです。
この地位、特権、権力への切望、社会によって何らかの点で秀でた人間だと認められたいという強い願いは、他者を支配したいという切望です。
そしてこの支配への願望は攻撃性の一つの形態なのです。
聖性に関して地位を追い求める聖人は、農家の庭先でつっつき合っているニワトリと同じくらい攻撃的なのです。
それで、この攻撃性の原因は何なのでしょう?
それは恐怖なのではありませんか?

Ⅴ. 自己関心─地位への渇望─恐怖と恐怖全体─思考の分裂─恐怖の終わり より

「他人から認められたい」という承認欲求は
時に行動のモチベーションとして肯定的に捉えられることもありますが、
クリシュナムルティはこれを「他者を支配したいという切望」の表れであり、
恐怖から生じるものであるとして根本から否定しています。

恐怖はつねに思考の産物です。
そしてもしそうなら、他の種類の恐怖などありますか?

私たちは死を恐れています─つまり、明日または明後日、
時間の中で起こるだろうことを恐れるのです。
今あるものと未来に起こるだろうこととの間には距離があります。
今、精神はこの状態を経験しました。

死を観察して、それはこう言います。
「私は死ぬことになるのだ」と。

思考が死の恐怖をつくり出します。
もしもそうでないなら、そもそも恐怖などあるでしょうか?

恐怖は思考の産物でしょうか?
もしそうなら、思考はつねに古いものなので、
恐怖もつねに古いのです。
すでに述べたように、新しい思考などというものは存在しません。
私たちがそれを認知するとき、それはすでに古くなっているのです。

ですから、私たちが恐れているものは古いものの繰り返しなのです。
これまであったものについての思考が、未来への投影を行っているのです。
それゆえ、恐怖の原因は思考です。

実際そうであるのを、あなたは自分で見ることができるでしょう。
あなたが何かにじかに直面するとき、そこに恐怖はありません。
恐怖があるのは、思考が入り込んでくるときだけです。

Ⅴ. 自己関心─地位への渇望─恐怖と恐怖全体─思考の分裂─恐怖の終わり より

クリシュナムルティは恐怖の根源には『思考』があり、
恐怖をなくすにはあるがままの現実を直視し、
思考が生み出すイメージに囚われないことが大切であると説きます。

もちろん、社会生活を営む上で完全に思考を放棄することなど不可能ですし、
恐怖の中には思考以外から生まれる肉体的な、動物的本能に根ざした恐怖もあることは
この章の初めでクリシュナムルティ自身も認めているところです。

とはいえ、昨今多くの人が口にする
『漠然とした将来への不安』のようなものについては
クリシュナムルティの上記の分析が
かなり的を得ているように思えますし、
形のない不安という感情を目に見える形で論理化して捉えることは

エクスプレッシブ・ライティングのように
実際にそれを軽減する上で一つの有効な手段となりうるのではないかと思います。

時間とは悲しみである

時間とは何か、お分かりですか?
時計によって計られるものでも、年代順の時間でもない、
心理的な時間のことです。

それは考えることと行動との間にある間隙(インターバル)です。

考え[観念]は明らかに自己防衛のためにあります。
それは安全という観念です。
行動は常に即座です。
それには過去も未来もありません。
行為することは常に現在にあります。
しかし行動はあまりに危険で不確かなので、
私たちは一定の安全を与えてくれるだろうと期待する観念にすがり付くのです。

そこで、私たちはたずねています。
私たちは時間を終わらせることができるだろうか、と。
私たちは完全に生きて、思考がそれについて考える明日が
存在しないようにできるでしょうか?
なぜなら、時間は悲しみだからです。

昨日か千日も前かに、あなたは愛しました。
あるいは伴侶(companion)を亡くしました。
そしてその記憶がまだ残っていて、
あなたはその喜びや苦痛について考えているのです。
あなたは過去を振り返り、願望し、希望し、後悔しています。
そしてそれを何度も繰り返し反復する思考が、
私たちが悲しみと呼ぶこのものを育み、時間に継続性を与えるのです。

思考によって育てられたこの時間のインターバルがあるかぎり、
悲しみもあるにちがいありません。
恐怖の継続があるにちがいないのです。
そこで人は自問します。
このインターバルが終わることはあるのだろうかと。
もしあなたが「それは終わるのだろうか?」と言うなら、
そのときそれはすでに一個の観念、あなたが達成したいと願うものなので、
それゆえあなたはインターバルをもち、またもやそれに捕まってしまうのです。

Ⅸ. 時間─悲しみ─死 より

時間は悲しみである。
なんとも印象的なフレーズですが、
ここでクリシュナムルティが述べていることはつまるところ
苦しみや哀しみはその原因を知り、消滅させることで消えるとする
ブッダの有名な縁起説に通ずる考え方である思われます。

人は時間によって生きています。
頭の中で未来を思い描くことは彼のお気に入りの逃避のゲームなのです。

クリシュナムルティは過去だけでなく未来についても
ただの観念に過ぎないと切り捨てています。

このことが意味するのは、私たちが平和に生きるのに、
明日というものをあてにすることはできないということです。
私たちは今この場で秩序あるものにならなければならないのです。

学ぶことは時間に関わる問題でしょうか?
何千年もたったというのに、
私たちは互いを憎み合ったり殺し合ったりするより
ましな生き方があるということを学んでいません。

もしも私たちが今あるような化け物じみた無意味なものにするのに
加担してきたこの生[=人類世界の問題]を解決したいと思うなら、
時間の問題は理解すべき非常に重要な問題の一つとなります。

クリシュナムルティのこの言葉を読んで、
私が思い浮かべたものは心理学の現状維持バイアスでした。

新しいことや未知のものより、
すでに慣れ親しんだものや考え方を好む人間の性質のことですね。

そしてクリシュナムルティは時間という観念の正体が、
人間が作り出した現状維持のための都合の良い道具であり、
人間が完全に生きることを妨げている原因となっていることを
指摘しているのだと私は受け取りました。

完全に生きるには、瞬間瞬間に死ななければならない

私たちは生を死から分離してきました。
そして生と死の間のそのインターバルが恐怖なのです。
そのインターバル、時間は、恐怖によって作り出されます。
生は私たちの日々の苦しみ、日々の屈辱、悲しみ、混乱であり、
時たま窓が開いて向うに魅惑的な海が見えるといったようなものです。

それが私たちが生と呼ぶものであり、
私たちは死ぬことを恐れていますが、
それはこのみじめさの終わりなのです。

私たちは生まれ変わりについての
真実を知りたいと思います。
魂の死後生存の証拠を求めます。
私たちは透視家たちの主張や
心霊研究の結論には耳を傾けます。
けれども決して、一度として、
どのように生きるべきか─喜びと共に、
魅惑と共に、美しい日々と共にどう生きるか─とは問わないのです。

私たちはそのすべての苦悩や絶望もろとも、
今あるような生を受け入れてきました。
そしてそれに慣れて、死を注意深く避けるべきものと考えるのです。

けれども死は、私たちがいかに生きるかを知るとき、
生と驚くほどよく似たものとなるのです。
あなたは死ぬことなしに生きることはできません。
各瞬間ごとに心理的に死ぬのでなければ、
あなたは生きられないのです。

これは知的なパラドックスではありません。
あたかもそれが新たな魅惑であるかのように、
毎日を完全に、全体的に生きるためには、
昨日のすべてのものに対する死がなければなりません。
さもなければあなたは機械的に生きることになり、
そして機械的な精神は愛が何であるか、
自由が何であるかを知ることができないのです。

Ⅸ. 時間─悲しみ─死 より

先と同じく"時間"について。

瞬間瞬間に(精神的な意味で)
死ぬのでなければ本当に生きることはできない。

これはとても本質的なメッセージだと思います。

あらゆる観念、フィルター、雑音を取り除いて、
今この瞬間にある、あるがままの現実だけを認識すること。

このことに対する気づきこそが、
テレビやネットから途切れることなく流れてくる
雑多な誘惑やイデオロギー、思想主張が溢れかえって
誰もがその中で溺れそうになっている現代において
主体的に自立して生きていくために必要なことだと私には思えてなりません。

条件付きの愛について

あなたは自分の妻を愛していると言います。
その愛の中には静的な快楽が、あなたの子供の世話をし、
料理を作ってくれる誰かを家の中に所有しているという快感が含まれています。

あなたは彼女に依存しています。
彼女はあなたにその肉体を、感情を、勇気を、安心と幸福の特定の感情を与えてくれました。
それから彼女はあなたにその肉体を、感情を、勇気を、安心と幸福の特定の感情を与えてくれました。
それから彼女はあなたの元を去ります。
彼女はあなたに飽きたか、または他の誰かと駆け落ちするのです。

するとあなたの感情のバランス全体が破壊されます。
そしてこの妨害・動揺が─あなたはそれを好みませんが─嫉妬と呼ばれるのです。
そこには苦痛が、不安、憎しみ、暴力があります。
だからあなたがいっているのは、ほんとはこういうことなのです。
「おまえが私のものであるかぎり、私はおまえを愛する。しかしそうでなくなったとたん、私はお前を憎み始める。性的なものでも他のものでも、私の要求を満たすのにおまえをおまえを当てに出来るかぎり、私はお前を愛する。しかしおまえが私のほしいものを提供するのをやめたとたん、私はおまえが好きでなくなるだろう」と。

Ⅹ. 愛 より

この言葉を初めて読んだ時、私は少し怖い思いがしました。

なぜなら、かつての自分を振り返った時、
私はここでクリシュナムルティが述べているような
条件なしの愛というものをただの一度でも
持ったことがあると自信を持って言い切ることができなかったし、
なおかつこれから先にもそのような愛を
持つことはできないのではないかと感じたからです。

恐怖とも、依存とも、嫉妬とも無縁の愛。

そんな愛を知っていると自信を持って言える人がいたならば
その人はきっと途轍もない幸運の元にあるのでしょう。

クリシュナムルティから見たキリスト教

悲しみと愛が両立することはありません。
しかしキリスト教世界では、
人々は苦しみを理想化し、それを十字架にかけて崇拝してきたのです。
このことは一つの特定の戸口を通してでなければ、
あなたは苦しみから逃れられないということを含意します。
そしてこれが、搾取的な宗教社会の構造全体が意味するものなのです。

Ⅹ. 愛 より

宗教的の権威性や組織化された宗教を明確に批判するクリシュナムルティですが、
世界で最大級の信徒数を持つキリスト教についても「搾取的」であるとして容赦なく切り捨てています。

人生の意味や目的を教義として『与える』キリスト教の思想と
あるがままの全体的知覚を重視し『気づかせる』クリシュナムルティの思想とは
根本的に相容れないものだったのでしょう。

しかし、私たちは問いません。
私たちは教えてもらいたがるのです。
私たちの精神構造の最も奇妙な点は、
私たちは皆教えてもらいたがるということです。

それは私たちが一万年にわたるプロパガンダの産物だからです。
私たちは他の人から自分の考えを肯定され、[それが正しいという]裏付けを与えてもらいたがります。
これに対して、問いを発することは自らにそれを問うことです。
私が言うことにはほとんど何の価値もありません。
この本を閉じた瞬間、あなたはそれを忘れるでしょう。
あるいはいくつかのフレーズを思い出して、これを繰り返したりするかも知れません。
またはここで読んだことを、何か他の本と較べてみることでしょう。
しかしあなたは、自分自身の生と向き合おうとしません。

そしてそれこそが問題なのです。
あなたの人生、あなた自身、あなたの卑小さ、あなたの浅薄さ、
あなたの冷酷さ、あなたの暴力、あなたの貪欲さ、あなたの野心、あなたの日々の苦悩と果てしなく続く悲しみ─
それがあなたが理解しなければならない当のものなのであり、地上の、あるいは天上の誰も、あなたをそこから救い出すことはないのです。あなた自身以外には誰も。

ⅩⅥ. 全的革命─宗教的な精神─エネルギー─情熱 より

この本の中でクリシュナムルティは自身の思想について、
言葉による理解を拒絶する発言を繰り返している。

クリシュナムルティの言説の本旨は
思考がもたらす認知の歪みを脱して
あるがままの現実を認識することにあるのだから
これは至極当然のことだと思う。

思考が作り出すイメージにとらわれることなく、
あるがままの現実だけを見つめ、自分自身の生と向き合うこと。

この境地にたどり着くためには近道などなく、
日々の生活の中での実践を持ってしか達成できないものなのかもしれませんね。

終わりに

現代を生きる私たちがクリシュナムルティを読む意義については、
訳者あとがきの次の一文が素晴らしく的を得ているように思います。

社会生活のあらゆる領域に病理的な混乱が広がる
今のような時代には、安易な慰めや現実逃避の手段ではなく、
クリシュナムルティが提示するような根本的・全体的な人間洞察と
それによる自然な内的変容こそが要請されていると言えるのではないかと思う。

人間が頭の中で作り出した観念に執着しないこと、
この世に永続するものなど何もないと理解すること、
どんな権威にも伝統にも依存しないこと、
今ここにある現実をあるがままに見て、それに全力で向き合うこと。

普段あまり意識してこなかったこうした事柄について、
深く向き合う機会が得られた読書体験でした。

ちなみに…
今回は私が特に関心を位だたいた部分を
「抜粋」という形でご紹介する形になってしまいましたが、
それはあくまでも私の恣意的な編集を経たものであり、
書籍本来の意図からは幾分乖離したものとなっているかと思いますので、
もしこの記事を読んでクリシュナムルティに興味が湧いたのでしたら、
きっちり書籍を通して読んであなたなりにその思想と向き合ってみることをおすすめします。

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