退屈ブレイキング

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20世紀を代表する知の巨人、バートランド・ラッセルの名著『幸福論』の解説と名言まとめ

はじめに

あなたはバートランド・ラッセルを知っているか?

こんにちは、
北陸の厳冬にも負けない男、
daimaです。

バートランド・ラッセル
(引用元 : Bertrand Russell: the everyday value of philosophy | Clare Carlisle | Opinion | The Guardian)

さて、あなたはこの
知的な顔つきの老人をご存知だろうか。

そう、この人こそは
1950年にノーベル賞を受賞した、
20世紀を代表する知の巨人、
バートランド・ラッセル
(Bertrand Arthur William Russell 1872 - 1970)

だ。

ラッセルの業績は幅広く、中でも
フレーゲ集合論の矛盾を導いた
ラッセルのパラドックスや、
後にC・ゲーデル
不完全性定理にも繋がった、
数学を論理学に還元する一大プロジェクト
数学原論『原題:Principia Mathematica
の著述は後世の数学、論理学に
非常に大きな影響を与えた。

また、言語ゲーム論で知られる
ウィトゲンシュタインを指導し、
論理哲学論考に序文を寄せ、
出版を手助けしたことも
見逃せない業績の一つだろう。

とはいえラッセルは
決して学問一辺倒というわけでもなく、
後年は熱心な平和活動家となって、
人生に二度の投獄を経験したり、
あのアインシュタイン
核兵器の廃絶を訴える
ラッセル=アインシュタイン宣言
出したりと、まさに
知行合一を地でいくような
アクティブな生き方を実践した
行動の人でもあったのだ。

ラッセルが示した『幸福論』

さて、ここからが本題なのだが、
本日はそんなラッセル卿の著書の中でも
特に有名で、かつ一般読者向けの書籍、
「幸福論(原題:The Conquest of Happiness)」
について皆さんにご紹介したいと思う。

ラッセルの幸福論が示すのは、
ラッセル自身の人生経験に基づいた、
人間が不幸になる原因と、
幸福になる原因の論理的な分析
だ。

数学者、論理学者のラッセルらしく
その主張は非常に簡潔かつ理性的。

またさらに着目すべきは、
『幸福論』が、あるタイプの人々
ターゲットに想定して書かれている点だ。

そのターゲットとはズバリ内向型人間
今風の言葉で言えば、
いつもくよくよ悩んでいるような
陰キャのために本書は書かれているのだ。


本書は、学識者や、
実際的な問題など
おしゃべりの材料にしかならないと
考えているような人びとに
向かって書いたものではない。

この本の中には、
深遠な哲学も、
深い学識も見出されないだろう。

私は、ただ、常識
——であってほしいと願っている
によって示唆された
若干の所見をまとめることを
目指したに過ぎない。

      • 中略---

それゆえ、あえて希望したいことは、
幸福をエンジョイすることなく、
不幸に苦しんでいる多数の男女の中に、
本書によって
自分の置かれた立場を診断され、
そこからのがれる方法を
暗示されたと感じる人が
少してもいてほしい、ということだ。

現在不幸な多くの人びとも、
周到な努力によれば
幸福になりうるという
信念に基づいて、
私は本書を書いたのである。

(岩波文庫『幸福論』はしがきより引用)

まず上記序文を読んで分かるように、
この本はいわゆる知識人のための本ではない。
あくまでも、ラッセルの経験に基づいた、
内向型の人間がより幸福に生きるための
アドバイスが書かれた本なのである。



私は、幸福に生まれつかなかった。
子供の頃、私のお気に入りの賛美歌は、
「この世に倦み、罪を背負いて」であった。

五歳のとき、つくづく考えたことは、
もしも七十歳まで生きるとすれば、
まだ全生涯の十四分の一を
耐え忍んだに過ぎない、
ということだった。

そして、行く手に横たわっている
長い退屈は、
ほとんど耐え難いものに思われた。

思春には私は生をいとい、
いつも自殺の淵にたたされていた。

しかし、なんとか
自殺を思いとどまらせてくれたのは、
もっと数学を知りたいという思い出あった。
(『幸福論』第一章より引用)

また、上の文を読むとわかるが、
若き日のラッセルもまた、
典型的な内向型人間だった。

貴族の家に生まれて
厳格な清教徒の祖母に育てられ、
家庭教師を雇い学校にも通わず
孤独に成長したラッセルは
しかし数学の面白さに出会い、
生きる希望を見出したという。

本書には、そんな
孤独を乗り越えてきた
ラッセルならではの知見や、
鋭い指摘が嫌味なく書かれていて、
それは時代を超えて共感を生み、
今なおamazon
西洋近現代思想カテゴリで
ベストセラーを獲得するほどの
息の長いベストセラーとなるなど
高い人気を得ている。

それでは、
前置きはこの辺にして、
幸福論に書かれた
ラッセルの言葉を紐解いてみよう。


幸福論を読む


幸福な生活は、おおむね、
静かでなければならない。
なぜなら、静けさの雰囲気の中でのみ、
真の喜びが息づいていられるからである。
(『幸福論』第4章 退屈と興奮 より引用)

ラッセルは、
ダーウィンやカントを引き合いに出し、
静かな生活は偉大な人びとの特徴であり、
それは、そのような偉大な人々が、
余計な娯楽に裂くエネルギーを
持ち合わせていなかったからだと語っている。

私たちがダーウィン
カントのような仕事が出来るかはともかく、
内向型人間が大成する上で
一人になれる時間が大事だということは
とても同意できる。



あらゆる種類の恐怖は、
直視しないことでますます募ってくる。
(『幸福論』第5章 疲れ より引用)

karapaia.com

日本人は人口の97%が
先天的に怖がりの遺伝子をもつというが、
あなたは自分を怖がりだと思うだろうか?
ちなみに私は子供の頃から相当なビビリだ。

会社の重要なプレゼンや大事な試合、
あるいは初対面の相手との会話など、
生きていれば怖い事が沢山あるけれど、
全ての恐怖に共通して言えることは、
自分が感じている恐怖の原因について、
真っ正面から向き合うことが
一番の対策になるということ。

実際、先ほど挙げた恐怖の例も、
あれこれ想像している間は怖いが、
勇気を出して正面から向き合ってみれば
案外大したことはなかった、

ということも多い。

もしあなたが、
不安や恐怖に襲われたときは、
ぜひこのラッセルの言葉を
思い出してみてほしい。



ねたみは、民主主義の基礎である
(『幸福論』第6章 ねたみ より引用)


人間の幸福を増やしたいと思う人は
誰でも、賛美の念を増やし、
ねたみを減らしたいと
考えなければならない
(『幸福論』第6章 ねたみ より引用)


他人と比較してものを考える習慣は、
致命的な習慣である。
(『幸福論』第6章 ねたみ より引用)

ラッセルは心配事についで、
人間が不幸になる
もっとも強力な原因として
『ねたみ』を挙げ、
さらに民主主義とは
誰かが突出することを許さない
ねたみのシステムであると分析する。
(民主主義自体の否定はしていない)

嫉妬が不幸を生み出すことは
誰もが納得することだと思うけれど、
だからといって
嫉妬をなくすことは容易なことではない。

例えば、自分が給料日前に
カップ麺で糊口をしのいでいるときに、
テレビで豪邸自慢をする芸能人を見た時や、
歳が近いのに、自分よりずっと
成功して稼いでいる人の話を聞いて、
ムッとした経験がある人は
少なくないだろう。

ラッセルはこのような
ねたみを減らす方法として、
まず疲れを減らすこと、そして
本能を満足させるような
生活を確保すること
を挙げている。
つまりは、他人と比較できない
主観的な幸福を大事にせよ
ということだ。

確かに、他人をねたみ
引きずり下ろすのはなく、
自分の主観的な幸せを
増やす方に意識を向けることは
生産的だし、理にかなっている。

また、僕らの時代は
テレビネットSNSなど
他人の暮らしぶりの情報が
容易に入手できるようになった分、
こうした「ねたみ」による不幸は、
ラッセルの時代よりもっと余計に
深刻になっているように思える。

つまり、夜遅くまで
まとめサイトSNSを回遊するような
ライフスタイルはまさに最悪であり、
脳の疲労を蓄積し、ねたみを増長する。

これは私の経験からも
多分に同意できる経験則であり、
もしこのような生活パターンに
心当たりのある人は、
十分に気をつけていただきたい。



合理的な道徳においては、
どんな人にも
いや自分自身にさえ
快楽を与えるのは見上げたことだと
みなされるだろう

ただし、それを帳消しにするような苦痛を
他人にも自分自身にも与えないことが条件である。
(『幸福論』p110 第7章 罪の意識 より引用)

冒頭で触れたように、ラッセルは
清教徒の祖母から厳格な教育を受け、
のちの人格形成に大きな影響を受けている。

19世紀の清教徒ほどでなくでも、
道徳というものは
私たちの生活様式や行動に
とても強い影響を与えているものだ。

例えば日本の神道には
八百万の神という概念があって、
そのために小さな虫でも殺すのに
罪悪感があるという人は多い。

西洋で言えばキリスト教
道徳がそれに当たり、
今でも聖書の言葉は頻繁に引用され、
映画や音楽などの分野に
宗教的な思想が暗示されることも多い。

時計仕掛けのオレンジは何がすごいか | はてな匿名ダイアリー
キリスト教が映画に影響を与えた好例を解説するエントリ

しかし、道徳とはそもそも
人間のためにあるのであり、
道徳のために人間が不幸になることは
明らかに間違っている。

ラッセルは、自分が教え込まれた
「罪の観念」という
キリスト教の道徳が不当に自己中心的で、
欠陥のあるものだったと批判している。

同様に、もしいつも
「〜ねばならない」調の
道徳的意識、義務感に縛られて
生き辛さを感じている人がいれば、
思い切ってそのルールを
再検討して見てはどうだろうか。

ラッセルの言うように、
それが他人を傷つけず、
自分の幸福度を増すものならば、
どんな生き方も肯定されていいはずだ。

こうした柔軟な考え方こそが、
人間の生を自然で豊かなものに
してくれるのだと私は思う。



あなたの幼年時代を支配した人たちの
思い出に対する不敬を恐れてはならない。

当時、彼らが強く賢く見えたのは、
あなたが弱く愚かだったからにほかならない。

いまや、あなたは弱くも愚かでもないのだから、
あなたの仕事は、彼らの見かけ上の
強さと賢さを点検し、あなたがいまだに
習慣の力で払っている尊敬に、
はたして彼らが値するかどうか考えてみることだ。
(『幸福論』p114 第7章 罪の意識 より引用)

引き続き道徳についての一文。
ラッセルは性の問題を例に挙げて、
人間が不幸になる原因の一つが、
子供の頃に親に植え付けられた
道徳的な固定観念にあると語る。

三つ子の魂百までと言うが、
幼少時の親の教育というのは、
その人の人格形成に
多大な影響を及ぼすものだ。

例えば私の場合、
子供の頃母から米粒の中には
3人の神様がいる
という話を
聞かされていからというもの、
大人になって今でも、
茶碗に米粒を残すことに
少なからず罪悪感を感じてしまう。

尤もこの程度なら笑い話で済むが、
これが性の問題になると話がやっかいで、
特に男性の場合、母親の影響で
性行為は汚いものという誤った観念を
植え付けられてしまうことが少なくない。

しかも、この先入観は
大人になってもそう容易には
抜けきらないものなのだ。

もちろん、
性にはルールが必要だ。
しかし、それも行き過ぎれば
人間の自然な幸せを
阻害することになるし、
一生物の第一目的は
子孫を残すことであって、
これを否定することは
生物そのもののあり方を
否定することになってしまう。

また、ラッセルは後年、
フロイトなどの心理学にも
興味を示していたようだが、
性の問題について語る際には、
その影響がしばしば見られて面白い。



なんぴとも完全であることを
期待すべきではないし、
また、完全でないからといって
不当に悩むべきではない
(『幸福論』p126 第8章 被害妄想 より引用)

まれに、完璧主義というか、
一点のミスも許さないような
極端な生き方

自分に課してしまう人がいる。
(若いうちは特に)

しかし、そういう人は
遅かれ早かれ心が折れてしまうし、
第一人間何事にも
完璧ということはありえない。

一流の人々であってさえも、
何かを捨てて始めて
一つのことを極められるものだ。

(余談だが、つい先日の冬季五輪で、
フィギュアの二大会連を果たした
羽生選手が、「多くのものを
捨ててここまできた」といった
発言をしていたことは印象深い。)

…と、
これだけならよくある月並みな
アドバイスの一つに過ぎないが、
かつて数学の完全性を取り戻す
戦いに身を捧げて挫折した

ラッセルの言葉として見ると
また違った味わいがあって面白い。



私たちが善行をする動機は、
自分で思っているほど純粋であることは滅多にない
(『幸福論』p128 第8章 被害妄想 より引用)

人の行う善意、行為というものは
ごく一部の例外を除いてほとんどの場合、
利己的な動機が含まれている。

例えば、私がバスで席を譲るのは
それで自分が気持ちよくなるためという
理由が少なからずあり、
会社の同僚にお菓子を
お裾分けするのは、それが
快適な車内環境を得る上で
有効な手段の一つだからだ。
(もちろん、純粋な好意もあるけれど)

実際に無私の愛、あるいは
カントの言う定言命法の道徳というのは
色違いのポケモンより
見つけるのが難しい。

この言葉から学べることは、
たとえ自分が親切(と思ってした行動)を
相手に与えても、そこに
見返りを求めてはいけない。
つまり他人に期待しないという姿勢だ。

いちいち、
他人からの見返りを期待していては
ひたすら失望を味わうことになり、
最悪の場合、人間不信に
陥ってしまうだろう。



以上の実例から、
一般的な公理が四つ示唆される。
これらの公理は、
その真意が十分に理解されたならば、
被害妄想の適切な予防薬となるだろう

第一、あなたの動機は、
あなた自身で思っているほど
利他的ではないことを忘れてはいけない。

第二、あなた自身の美点を
過大評価してはいけない。

第三、あなたが自分自身に
寄せているほどの大きな興味を
他の人も寄せてくれるものと
期待してはならない。

第四、たいていの人は、
あなたを迫害してやろうと
特に思うほどあなたのことを
考えている、などと
想像してはいけない。
(『幸福論』p128 第8章 被害妄想 より引用)

第8章の総まとめ。
ここで公理という言葉が出てくるのが
実に数学者のラッセルらしい。
公理というからには、
これらは全て自明の事実なのだろう。

中でも私が着目したいのが
第三と第四の公理だ。

世の中には
視線恐怖症というものがある。
これは、集団の中にいると、
自分が見られているような感じがして、
気持ちが落ち着かなくなる心理的な病気だ。

実を言うと、私もこの傾向があり、
人混みや満員電車は大の苦手だったりする。

そんな時、冷静に
そもそも他人は自分に興味がない
ということを意識すると
結構気持ちが楽になる。

私と同じように、
人混みが苦手な方は、
ぜひこの公理を
頭に焼き付けておいてほしい。
個人差はあると思うが、
多少は気持ちが軽くなってくれるだろう。



自分の環境とどうも
しっくりいかないと思う若い人たちは、
職業を選択するにあたっては、
可能な場合はいつでも、
気心のあった仲間が得られるチャンスの
ある仕事を選ぶように努めなければならない。

よしんば、そのために
収入が相当減るとしてもである。

(『幸福論』p145 第9章 世評に対するおびえ より引用)

要は、仕事から幸福を得るには、
環境が一番大事ということ。

そして若いうちは
目先の利益や保身を考えずに、
自分が居心地の良い職場を
探すことに注力しなさいということだ。

これは私も身に覚えのある話で、
昔、コミュニケーションの苦手を
克服しようと思って、
チェーン系ラーメン店の接客業の
アルバイトに飛び込んだことがある。

しかし、そこで学んだことは、
不向きなことを治そうとするよりも
得意なことを伸ばしていったほうが
一万倍もマシである
ということだった。

実際、多少コミュ力に問題があっっても、
プログラミングやデザイン、ダンス、
作曲能力、運動能力、学問的素養など、
何か一つ人に負けない長所を持っていれば、
分業という素晴らしい仕組みのおかげで
今の世の中十分に生きていける。

自分のマイナスを受け入れるというのは
生きていく上でとても大事なポイントだ。



機械生産の最終目標は
—確かに、まだその目標からはほど遠いが—
おもしろくないことはすべて機械が行い、
人間は変化と独創性を要する
仕事のために取っておかれる、
といった態勢である。

(『幸福論』p166 第10章 幸福はそれでも可能か より引用)

今のテクノロジーの発展を
予知したかのようなラッセルの
先見性が感じられる一文。

もっともここからは、
創意工夫のない仕事は
やがて機械に奪われるという
危機感を読み取ることもできるが。



他人に害を及ぼさない楽しみは、
どんなものでも尊重されるべきである。
(『幸福論』p169 第10章 幸福はそれでも可能か より引用)

ラッセルは趣味を肯定する。
また、ある趣味に親しめる人は、
そうでない人より上等だとも言う。

ちなみにラッセル自身は、
旅行に出かけて世界中の川を
巡ることが趣味だったようだ。



根本的な幸福は、ほかの何にもまして
人や物に対する友好的な関係とも
言うべきものに依存しているのである。
(『幸福論』p170 第10章 幸福はそれでも可能か より引用)

ラッセルは趣味を肯定したが、
それ以上に人と人との関わりの
中にこそ真の幸福があると言う。

toyokeizai.net

確かにそれは私も大いに同感だ。
人間にとって孤独ほど辛いことはないし、
また孤独は実際に人間の
寿命を縮めるからだ。



白人種の作り出した文明には、
次のような奇妙な特徴があることは疑いがない。
すなわち、男女ともに、
この文明を吸収すればするほど
不妊になるのである。

最も文明化した人間は
最も不妊であり、
最も文明化していない人間は
最も多産である。
(『幸福論』p215 第13章 家族 より引用)

これも鋭い考察。
文明化され、洗練されていくことは
生きる力を失うことなのかもしれない


両親がもっとも頼りになるのは、
不幸のときである。
まともな親であれば、
病気の時も、いや、世間に顔向け
できないようなことをしたときでさえ、
頼みになるのだ。

私たちはみんな、
長所のゆえに賞賛されたときに喜びを感じる。
しかし、たいていの者は、
そういう賞賛は当てにならない、
と内心感じるだけの
謙虚さを持ち合わせている。

両親が私たちを愛するのは、
私たちが彼らの子供であるためである。
これは、変わることのない事実であって、
だからこそ、ほかのだれといるよりも、
親のそばにいるときに
安全と感じるわけだ。
(『幸福論』p221 14章 家族 より引用)

ラッセルは家族というものを
とても大事に考えていて、
中でも両親のありがたさは、
落ち目の時にこそ分かると語る。

最後に頼れるのは家族
いざというとき、見返りなく
頼れる存在がいる安心感というのは
むしろ大人になってから
より強く実感している。。

もちろん、世の中には
ろくでもない親も少なくないが、
ラッセルの言うように、
親子の関係はやはり
人間の幸福に欠かせないものだと
私も思う。

私は今まで自分が子供を持つことなど
ほとんど考えたことがなかったが、
今回ラッセルの家族論に触れて、
いくぶんか興味が湧いてきた。


参考書籍と参考サイト様

ラッセル幸福論 (岩波文庫)

ラッセル幸福論 (岩波文庫)

幸福論の日本語訳版。
特に不備はないが、英語力に自信があれば
原文を当たってみるのもいい。


ロジ・コミックス: ラッセルとめぐる論理哲学入門 (単行本)

ロジ・コミックス: ラッセルとめぐる論理哲学入門 (単行本)

バートランド・ラッセルを主役としたマンガ作品
読みやすく、物語構成も秀逸でおすすめ。
ウィトゲンシュタインゲーデルについても軽く触れられている。


バートランド・ラッセルのポータルサイト

ラッセルのパラドックス - Wikipedia

no14

おわりに

さいごに、本稿で取り上げた
幸福論のラッセルの主張を
箇条書きでまとめてみよう。

  • 人間の不幸の最大の原因は不安
  • 人間の不幸の二番目の原因はねたみ
  • 他人ではなく、自分の価値観で生きることが大事
  • 幸せになりたいなら趣味を大事にしよう
  • 幸せになりたいなら家族を大事にしよう

こうして見ると、
ラッセルはごく当たり前のことしか
言っていない。

しかし、真実とはえてして
真っ当で退屈なものだ。

願わくば、私含む内向型人間全員が、
ラッセルが示してくれた
これらのヒントを元に、
主体的に、よりよい人生を
エンジョイしてくれることを切に望む。