嫉妬、粛清、差別…世界を変えながらも過酷な人生を送った8人の科学者たち

ガリレオの肖像画教養

はじめに

科学、そして数学は
ここ数百年の間に人類の社会を著しく発展させ、
今日では民間人による宇宙旅行すら実現するほどになりました。

現代において優れた結果を出した科学者、数学者はヒーローであり
惜しみない賞賛を受けますが、その一方で優れた功績を残しながらも
時代や環境のせいで苦境に立たされ、
時に命まで落としてしまった人々がいたこともまた事実です。

本日は、そんな悲劇に見舞われたそんな科学者(と数学者)たちの中でも
特に私が強く心惹かれた8人の人生を一覧でご紹介していきたいと思います。

ガリレオ・ガリレイ[1564~1642]

ガリレオの肖像画

ガリレオ・ガリレイといえば
地動説と異端審問裁判でつぶやいたとされる
“E pur si muove”(それでも地球は動く)」の言葉が有名ですが※、
裁判後のガリレオがどのような人生を送ったのかを
ご存知の方は意外と少ないのではないでしょうか。
(※現在ではこの発言は後世の創作であった可能性が高いと見られています)

地動説を撤回したことで無期刑から
軟禁に減刑になったガリレオはその後、
裁判後はフィレンツェ近郊アルチェトリ村の自宅に軟禁され、
亡くなるまでの10年余を抑圧されながら暮らすことを余儀なくされました。

散歩以外では外出もできず、全ての役職は剥奪され、
自由な研究ができない状況に追い込まれたのです。

また、1637~1638年頃には
天体観測のために太陽を肉眼で観測していたために
失明するという悲劇にも見舞われています。

しかしそれでも科学への情熱を保ち続けたのが
ガリレオのすごいところで、1638年には
「ガリレオの原稿が何者かによって盗み出され、
外国(オランダ)で勝手に印刷された」という抜け道を使って
『新科学対話』を発刊しています。

ちなみにカトリック教会が
正式にガリレオ裁判の誤りを認めたのは
ガリレオの死から実に350年が経過した1965年のことでした。

アントワーヌ・ラヴォアジエ[1743~1794]

ラヴォアジエの像

アントワーヌ・ラヴォアジエは18世紀フランスの化学者です。

質量保存の法則の発見をはじめ、
「四元素説」や「フロギストン説」に代表される
古代ギリシャ時代以来の誤った科学知識の否定や
今日の化学の教科書の礎とも言える『化学綱要』の刊行など
近代化科学の成立に関わる重要な業績を数多く残しました。

そんなラヴォアジエですが、
実は本職は化学者ではなく国家に仕える徴税請負人であり、
化学の研究はその仕事のわずかな余暇を使って行われていたというのだから驚きですね。

しかしながら、皮肉なことに
ラヴォアジエの命取りとなったのもまたこの徴税請負人の仕事でした。

1790年代にフランス革命が勃発すると
ラヴォアジエは徴税請負人であったことを理由に
革命政府から指名手配をかけられてしまったのです。

というのも徴税請負人の中にはしばしば
税金に不当な手数料を上乗せして私腹を肥やすものがいたことから
市民を苦しめる体制側の象徴として市民からの印象が悪く、
革命後はラヴォアジエだけでなく徴税請負人だったものは
一人残らず全員が指名手配の対象となっていた事情があったのでした。

しかしその状況においてラヴォアジエは逃げも隠れもせず
あえて自首という道を選びます。

なぜなら徴税請負人としてのラヴォアジエは
逆に市民の税の負担を減らすことに尽力していたため、
裁判を通じてきちんと主張すれば
自らの身の潔白を証明できる
と考えていたからです。

ところが…
その結末は実に残酷なものでした。

1794年5月8日、
革命裁判所における審判で、
「フランス人民に対する陰謀」の罪で
ラヴォアジエに死刑判決が下ったのです。

ラヴォアジエの処刑が決まった時、
担当の判事はこういったとされています。
「共和国は学者を必要としない」
と…

1794年5月8日、革命裁判所における審判で「フランス人民に対する陰謀」との罪で死刑の判決が下った。ラヴォアジエの弁護人はラヴォアジエの科学上の実績を持ち出して弁論を行ったが「共和国に科学者は不要である」と裁判長のジャン=バティスト・コフィナル(英語版)に指摘され、その日のうちにコンコルド広場にあるギロチンで処刑された。

wikipedia「アントワーヌ・ラヴォアジエ」より引用

かくして死刑を宣告されたラヴォアジエは
処刑の前夜まで自らの無罪の証拠となる
徴税の収支決算書を作成していた努力も虚しく
その日のうちにギロチンの露と消えることとなってしまいました。

ラヴォアジエの処刑後、その死を知った
同時代の数学者ジョゼフ=ルイ・ラグランジュは、
Il ne leur a fallu qu'un moment pour faire tomber cette tête et cent années, peut-être, ne suffiront pas pour en reproduire une semblable.(彼の首を切り落とすことは一瞬だが、彼に並ぶ頭脳が誕生するには100年あっても足りないだろう)
とその才能を惜しんだと伝えられています。

ルートヴィッヒ・ボルツマン[1743~1794]

ボルツマンの肖像画

ルートヴィッヒ・ボルツマンはオーストリアの物理学者。

主に熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)の証明や
統計力学におけるエントロピーの定義式である
ボルツマンの原理の発見などの功績で知られています。

ボルツマンは原子論の急先鋒として
原子の存在を否定する実証主義者のエルンスト・マッハや
ウィルヘルム・オストワルトらと激しく対立しました。

実証主義者というのは実際に体験したことしか認めない人たちのことで、
彼らは顕微鏡でも確認できない原子の存在を認めず
原子の存在を主張するボルツマンを激しく攻撃したのです。

元々憂鬱気質であったボルツマンは
この論争によって次第に疲弊していき、
さらに母と10歳の長男の死が重なった結果、
1906年に妻と娘と訪れていていた療養先のドゥイーノで、
家族が目を離した隙に首を吊って自殺してしまいます。

しかし運命とは皮肉なもので、
そのわずか3年後にはフランスの物理学者ジャン・ペランが
原子の存在を証明し、そのことによって長きにわたる論争にも
ボルツマンに軍配が上がる形で決着がついてしまったのでした。

もしペランの発見がもう少し早ければ、
あるいはボルツマンがもう少し長生きしていれば
自ら死を選ぶことはなかったのかもと思うと何ともやりきれない話ですね…

センメルヴェイス・イグナーツ[1817~1865]

センメルヴェイスの肖像画

ハンガリー出身の医師センメルヴェイス(またはゼンメルワイス)は
細菌の存在がまだ一般的に知られていなかった
19世紀中頃にいち早く手洗いの重要性を指摘し、
現在では「消毒の父」としても知られている人物です。

1844年からセンメルヴェイスが働いていた
ウィーンの総合病院では
医師や医学生が分娩を行う第一産科の方が、
どちらも同じ技術が使われているにもかかわらず
助産婦やその見習いが分娩を行う第二産科よりも
出産時に産婦が産褥熱などで亡くなる確率が
2〜4倍ほども高い
という不可思議な現象が起きていました。

死亡率が高い方の第一産科に所属し、
医師として目の前の命を救えないことに苦悩していたセンメルヴェイスは
その原因を突き止めるために研究を重ねた結果、
第一産科の医師たちが解剖室で死体に触れた後に
その手で産婦の分娩に立ち会っていた
ことに着目します。

そして、その事実から
「産褥熱の原因は死体から生じる何らかの汚染粒子が
医師たちの手を介して産婦に感染して起こっているのではないか?」

という仮説を立てたセンメルヴェイスは
それを実証するために分娩に立ち会う医師に対して
さらし粉による事前の手洗い義務を導入。

そしてその結果、第一産科の死亡率は
導入後からわずか1月で導入前の1/10にまで激減し、
さらに翌年には手術に使う器具の消毒まで徹底されるようになったことで
同病院の産褥熱による月間の死亡率がほぼ0%近くまで大幅に改善されるという
目覚ましい結果が得られたのです。

このように医師として画期的な発見をし
多くの命を救う道を開いたセンメルヴェイスでしたが、
しかしその功績が彼の存命中に報われることはありませんでした。

中世ヨーロッパの四体液説の影響がまだ色濃く残っていた当時
死体が死体を作るというセンメルヴェイスの主張が
あまりに急進的すぎたことに加え、
自分達の仕事を神聖なものだと考えていた多くの医師たちにとって、
自分達の不潔な手が間接的に患者を殺していた事実を認めることは
極めて不愉快なことだったのです。

その後も消毒の啓蒙活動を続けたセンメルヴェイスは
1861年に自らの発見をまとめた論文を上梓するもやはり多方面から批判を受け、
それに対する反論を行うことを繰り返すうちに段々と心のバランスを崩していきます。

そして1865年7月、当時末期的な神経衰弱に陥っていたセンメルヴェイスは
とうとう家族や友人たちの手で半ば強制的に精神病院へと送られることとなり、
それからわずか二週間後に帰らぬ人となってしまったのでした。

しかもその死因と言うのが一説によれば精神病院の
劣悪な環境に耐えかねたセンメルヴェイスは
脱走を図ったことで職員達からひどい暴行を受け、
その際におった右手の傷の壊疽が元で死亡したともされていて、
それが事実だとすれば、あまりにも惨すぎる最期だといわざるを得ません。

その上、センメルヴェイスに関しては
死後も医学会から徹底して無視され続け、
葬式にはわずか数名しか出席せず、
彼が改革を行った病院も別の人間が後釜に入った直後に
患者の死亡率が元の水準に戻ってしまうなど
これでもかというほどの不遇尽くしなのだからもはや言葉も出ません。

彼の功績が正しく認められるまでには、
その死からおよそ20年後にルイ・パスツールが
細菌と病気の関係を明らかにするまで待たねばなりませんでした…

フリッツ・ハーバー [1868~1934]

フリッツ・ハーバーの写真

フリッツ・ハーバーは19世紀後半から
20世紀前半にかけてに活躍したドイツのユダヤ人科学者です。

特にノーベル化学賞を受賞した、
空気中の窒素分子からアンモニアを生成する方法である
ハーバー・ボッシュ法
の業績で知られるハーバーですが、
そのような華々しい業績に反して、彼の生涯には常に暗い陰が付き纏っていました。

その最たるものは第一次世界大戦における
毒ガス兵器の開発主導であり、このことは
重大な戦争犯罪に関わった化学者として
ハーバーの世界的な評判を生涯にわたって落とすことにつながりました。

そしてもう一つは最初の妻クララの自殺です。

ハーバーの妻クララは
ポーランドのブレスラウ大学で学び
博士号を取得するほどの才女だったのですが、
元来神経質な性格であったことや
ハーバーがクララに化学者としてではなく
妻としての役割を強いたこと、
そしてクララが毒ガスに反対の立場であるにも関わらず
夫のハーバーが毒ガス研究の第一人者であるという矛盾によるストレスなどが重なり、
1915年にハーバーの軍用ピストルを使って自分の胸を撃ったのでした。

そして、晩年には政権を握った
ナチスとの衝突もありました。

1933年、愛国的な化学者として名声の絶頂にあった
ハーバーのキャリアが大きく揺らいだ最初のきっかけは
自身が所長を務めるカイザー・ヴィルヘルム協会に
ユダヤ系が多かったことをナチスが問題視したことでした。

改宗していたとは言え自身もユダヤ人であったフリッツは
その要求を跳ね除け、州の教育大臣に嘆願書を提出するなどしますが、
ナチスの圧力には抗しきれず、
自身を含め多くのユダヤ人化学者が職を追われることとなり、
高齢のフリッツ自身も新たな職場を探さねばならない状況に追い込まれました。

しかしここで過去の悪因がハーバーに報います。
ハーバーが毒ガス研究を主導していたことは
すでにドイツ国内外に広く知れ渡っており、
そのために印象を悪くしていたハーバーを
雇ってくれる職場がなかなか見つからなかったのです。

最終的にはシオニズム運動家のハイム・ヴァイツマンの誘いで
パレスチナへ来るように誘いを受けたのですが、
すでに高齢で、精神的にも疲れ切っていたハーバーは
そこへ向かう旅の途中に体調を崩し、感情動脈硬化症により死去してしまったでした。

国家の為に人生を捧げたにもかかわらず、
最後にはその国家から裏切られるという悲劇に見舞われたフリッツ・ハーバー。

死後その遺灰は生前に残していた
「自分の遺灰はクララの遺灰と一緒に埋めて欲しい」という遺言書の指示通り、
スイスのバーゼルにある墓地に埋められ、現在はクララと共に静かな眠りについています。

ハンス・ヘルマン[1903~1938]

ハンス・ヘルマンのポートレート

ハンス・ヘルマンはその名を冠するヘルマン–ファインマンの定理や
量子化学としては史上初となる教科書の発行などの功績を残した
20世紀前半のドイツの理論物理学者です。

この時代のドイツといえば
避けて通れないのがナチスの存在ですが、
ヘルマンもまたナチスによって
人生を大きく狂わされた人物の一人でした。

ヘルマンにはユダヤ人の妻のビクトリアがいたのですが、
そのことがアーリア人至上主義を掲げるナチス政権から
「公務員として不適格」であるとみなされ、
理不尽にも当時の職務を解雇されてしまったのです。

それは、1929年に26歳の若さで
ライプニッツ大学の助教授になってから
四年後の1933年の出来事でした。

とはいえこれはある程度予想済みの事だったようで
解雇を告げる手紙が届くより前から
外国への転職活動を進めていたヘルマンは
オファーを受けていたいくつかの研究機関の中から最終的に
ロシアはモスクワのカルポフ物理化学研究所からの
オファーを受け入れることを決断します。

この決断の背後にはオファー内容に加え、
ロシアが妻の出身地であるウクライナに近かったこと
そしてヘルマン自身が社会主義を
支持していたことも関係していました。

かくして1934年に家族と共に
モスクワに移ったヘルマンでしたが、
悲しいことにそこもまた彼にとっての
安住の地となることはありませんでした。

ヘルマン一家が移住してから4年後の1938年、
当時のモスクワは歴史に残るスターリンの悪行の一つである
ソビエトの大粛清の嵐が吹き荒れていました。

ソビエト連邦共産党内における幹部政治家の粛清に留まらず、一般党員や民衆にまで及んだ大規模な政治的抑圧として世界でも悪名高い出来事である。ロシア連邦国立文書館にある統計資料によれば、1937年から1938年までに、134万4,923人が即決裁判で有罪とされ、68万1,692人が死刑判決を受け、63万4,820人が強制収容所や刑務所へ送られた。ただし、この人数は反革命罪で裁かれた者に限る。ソ連共産党は大きな打撃を受け、旧指導層(オールド・ボリシェヴィキ)はごく一部を除いて絶滅させられた。特に地方の地区委員会、州委員会、共和国委員会が丸ごと消滅したケースもある。

wikipedia「大粛清」より引用

一説によればこの粛清で
当時数十万人が犠牲になったとされていますが、
粛清の対象にはソビエトへの忠誠心が薄いと疑われた
多くの外国人たちも含まれており、
ドイツからの移民であったヘルマンもまた
反乱分子として秘密警察に目をつけられてしまいます。

そして1938年3月9日の深夜。
当時モスクワのアパートに住んでいたヘルマンは
突如乗り込んできたソビエトの秘密警察によって
アパートから引き摺り出され、
そのまま2度と家族の元へと戻ることはありませんでした。

その後のヘルマンの行方は長らく家族にも知らされぬままでしたが、
51年後の1989年に息子のヘルマンジュニアの調査によって
連行されたヘルマンがその後モスクワのタガンカ刑務所に収容されていたこと、
そして連行から2ヶ月後の5月9日に大粛清の代表的な処刑場の一つであった
ブトボで処刑されていたことが明らかにされています。

またこの時、ヘルマンジュニアは
当局が無理やり作成されたと思われる
ヘルマンの署名入りの自白文も入手していますが、
ヘルマンジュニアの調査をサポートした
歴史家兼ジャーナリストのアーノルド氏によれば
その字は目に見えてわかるほど
ガタガタに震えた筆致で書かれていたそうです…

アラン・チューリング[1912~1954]

アラン・チューリングの写真

アラン・チューリングはイギリスの数学者です。

2014年の映画イミテーション・ゲームで
ベネディクト・カンバーバッチが演じたことでご存知の方も多いかもしれませんね。

チューリングは第二次世界大戦時に
英国の暗号解読チームに参加し、
難攻不落と言われたドイツの暗号エニグマの解読に成功。
このことによってドイツ側の作戦の一部が連合国側に筒抜けとなり、
大戦の勝利に大きな役割を果たしました。

また、現代のコンピュータにつながる
計算機科学の先駆者としても知られ、
特に「計算可能な問題は全て計算できる機械」である
「チューリングマシン」の概念の創造は
現在の計算機科学の重要な基礎の一つとなっています。

このように計り知れない数々の偉大な功績を残した
チューリングでしたが、その晩年は極めて悲惨なものでした。

まず、戦時中に成し遂げた数々の業績は、
国家機密として口外することが許されず、
そのためチューリングは本来受けるべき
社会的な賞賛を何一つ得ることができませんでした。

その機密ぶりは徹底しており、
母親や友人ですらチューリングが戦時中に
具体的にどんな仕事をしていたのかを
知らないほどであったとされています。

そしてもう一つ、
チューリングにとって致命的だったことが、
彼が同性愛者であり、かつ当時のイギリスでは同性愛が犯罪扱いであったことでした。

1952年に、同性愛の相手であった19歳の青年が
チューリング宅への泥棒の手引きをしたトラブルをきっかけに
同性愛が発覚し有罪判決を受けたチューリングは
禁固刑を回避する条件として
エストロゲン(女性らしさを作るホルモン)注射による
同性愛の「治療」を1年間受けることを承諾します。

しかし、その治療は結果として
重度の鬱症状を引き起こすこととなり、
チューリングは治療開始からわずか2年後の
1954年に青酸化合物による服毒自殺という形で
自らの命を絶ってしまったのでした。

チューリングが発見されたベッドの側には
齧り掛けのリンゴが落ちており、
その最期は服毒自殺という方法も併せて
まるで映画『白雪姫』のワンシーンのようであったとされています…

北里柴三郎[1853~1931]

北里柴三郎の写真

北里柴三郎は日本は熊本県出身の細菌学者です。

1889年(明治22年)に世界初の
破傷付近培養に成功したことで世界にその名を知られている他、
最近は2024年から発行予定の
新1,000円札の肖像画にも選ばれたことでも注目を集めたことも記憶に新しいですね。

そんな北里が危機に陥ったのは
ドイツでの研究を終えて日本に帰国した1892年のこと。

ドイツ滞在中に東大時代の恩師で
留学を取り計らってもらった恩もあった
緒方正規の脚気病原菌説を批判していた北里は
東大側から「恩知らず」の烙印を押され、
母校の東大医学部と対立する形となってしまったのです。

学会に多大な影響力を持つ
東大を敵に回した北里を雇い入れてくれる研究所はどこにもなく
このままでは研究が継続ができないという状況の中、
北里を救ったのはあの福澤諭吉でした。

福澤の支援により北里は伝染病研究所を設立。
それが後にペスト菌の発見へとつながります。

しかし東大と北里との因縁はそれでは終わらず、
翌1893年には当時の東大総長の渡辺洪基が筆頭となり
伝染病研究所の反対運動が勃発。

北里の行っている研究が人体に有害だという風聞を広めて
研究を妨害しようとしたこの運動に対しては
再び福澤が先導して安全性をアピールすることで何とか沈静化しています。

また、時代は飛びますが1914年には
北里と対立していた東大教授陣の働きかけにより
北里への相談なしに急遽伝染病研究所が
東大の下部組織に統合される
という事態になり、
これに反発して北里以下、所員全員が辞職するという事件も起きています(伝研騒動)。

東大という巨大な組織に敵対したことで
さまざまな困難に直面することとなった北里柴三郎。

しかしそのおかげで北里研究所の設立や
慶応医学部の創設をはじめとする
日本の医学界の発展があったわけで、
そう考えると世界を変えるのはいつの時代も
こうした反骨の気風を備えた天才なのかもしれませんね。

終わりに

偉大な功績を残しながら悲惨な境遇を辿った科学者、数学者達の紹介でした。

彼らの生き様を振り返って思うのは、
人間は自分達が信じたいことを信じるのであって、
正しいことが常に認められるわけではないということ、
そして化学、数学が多くの才能ある人々の
惜しみない献身によって築かれてきた尊いものであるという事実です。

これからを生きる私たちは、これらの悲劇を教訓として、
先人が残してくれた化学や数学の知識を
正しく後世に伝えられるように努めていきたいものですね。

参考にしたサイト様(一部)

https://www.bdj.co.jp/safety/articles/ignazzo/1f3pro00000sihs4.html
http://www.tamakyo.com/areainfo/2003/
https://xtech.nikkei.com/dm/article/COLUMN/20150422/415622/
http://www-atom.mls.eng.osaka-u.ac.jp/mlsatbsk/busseikagaku/kissa04.htm
http://www-atom.mls.eng.osaka-u.ac.jp/mlsatbsk/busseikagaku/kissa04.htm
https://rika-net.com/contents/cp0320a/contents/rekishi/answer05/index.html
https://tenkyo.net/kaiho/pdf/2009_03/2009-03-03.pdf
https://globis.jp/article/322
https://www.kanazawa-it.ac.jp/dawn/110/163801.html
https://jpn.nec.com/rd/column/202102/index.html
https://staff.aist.go.jp/koji-abe/Scist/Lavoisier/Lavo.htm
https://www.1101.com/kasoken/2007-03-16.html
https://physicstoday.scitation.org/do/10.1063/PT.6.4.20180928a/full/
https://blog.goo.ne.jp/fu12345/e/8690aee3df6ff667125ec159936131c9
https://www.te.chiba-u.jp/lab/brains/itot/work/genius/g4/kitasato_3.htm

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